借金だけでも皆済《かいさい》することが出来ますのになあ」
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」
「なるほど」
 といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。

 その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
 板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
 彼は渋面を作っている。足が疲労《つか》れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行《つけ》られているのであった。
 彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢《きたな》らしい爺さんが歩いている。
 穢さ加減が酷《
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