記《いちのたにふたばぐんき》」とそれに「本朝二十四孝」それへ「暫《しばらく》」と「関の戸」を加えすっかり通そうというのであった。
同じ浅草花川戸に七代目団十郎の邸があったが、天保年間|奢侈《しゃし》のゆえをもって追放に処せられた彼のことで、その邸の美々しさ加減はちょっと形容の言葉もないが、その邸の二階座敷に小次郎はツクネンと坐っていた。
十九年前|一歳《ひとつ》の時に観音様の境内に籠に入れられて捨ててあったのを慈悲深い団十郎《なりたや》が拾い上げ手塩にかけて育てたところ、天の成せる麗々と不思議に小手先が利くところから今では立派な娘形で、市川小次郎の名を聞いただけでも町娘や若女房などは、ボッと顔を染めるほどの恐ろしい人気を持っていた。
振り袖を着、帯を締め、黙って部屋に坐っていてもこれが男とは思われない。受け口の仇《あだ》っぽさ、半四郎より若いだけに一層濃艶なところがある。
「小次郎さん小次郎さん」
階下《した》から誰か呼ぶ者がある。
「はあい」と優しく返辞をしたが、もうその声から女である。
「親方さんがお呼びですよ」
「はあい」といって立ち上がり、しとしと梯子段を下ったが、パラパラと蹴出す緋の長襦袢が雪のような脛《はぎ》にからみ付く。
三津五郎《やまとや》の所から帰ったばかり、団十郎はむっつりとして奥の座敷に坐っていたが、小次郎の姿を見上げると、
「そこへ坐りねえ」
と厳《いか》めしくいった。
「はい」
といって坐ったが、団十郎の膝の上に、小さい行李のあるのを見ると、小次郎は颯《さっ》と顔色を変えた。
「今日」と団十郎はいい出した。「瓦町の三津五郎《やまとや》でちょっとお前の噂が出た……聞けばあそこの三津太郎どん、行方を眩ましたということだが、お前とは昔から御酒徳利《おみきどっくり》、泣くにも笑うにも一緒だったが、どこへ行ったか知らねえかな?」
じっと様子を窺った。
「へえ、一向存じません」
「おおそうか、知らねえんだな。知らねえとあれば仕方もねえが、他にもう一つ訊くことがある。……この行李だ! 知っていような?」
膝の上の行李を取り上げるとポンと葢《ふた》を取ったものだ。
「へえ」といって小次郎はチラリとその行李を眺めたが、「見たことのある行李でございます」
「見たことがあるって? あたりめえよ! こいつアお前の行李じゃねえか」
団十郎は冷やかに、
「十九年前の春のこと、空っ風の吹く正月《むつき》の朝、すこし心願があったので供も連れず起き抜けに観音様まで参詣すると、大きな公孫樹《いちょう》の樹の蔭で赤児がピーピー泣いている、この寒空に捨て子だな、邪見の親もあるものだと、そぞろ惻隠《そくいん》の心を起こし抱き上げて見れば枕もとに小さい行李が置いてある。開けて見ればわずかの金と書き附けが一本入れてあった。後の証拠と持って来て土蔵の中へ仕舞って置いたが、今日お前の噂が出て、ふと気が付いて家へ帰り、土蔵へはいって見たところ行李と金とはあったけれど肝腎の書き附けが見付からねえ。そのうえ葢《ふた》は取りっ放し積もった塵《ちり》や埃《ほこり》の具合で、これはどうでも一年前に誰か盗んだに違いないとこう目星を付けたものさ。そうして色々考えて見たが、あの行李のあり場所とあの書き附けを知っている者はお前より他には誰もいねえ。元々行李も書き附けも皆《みんな》お前の物なんだから取って悪いというじゃないが、何故欲しいなら欲しいといって俺に明かせてくれなかった。それともそんな書き附けなんか取った覚えがないというならまた別に考えがある」
先祖譲りの大きい眼をグッと見据えて睨んだ時、ブルッと小次郎は身顫いした。
「はい」といったが俯向いたまま、
「さような大事の書き附けを何んで私が盗みましょう。存ぜぬことでございます」
「なに知らねえ? 本当の口か?」
「存ぜぬことでございます」
「ふうむ、そうか。確かだな!」
「何んの偽《いつわ》り申しましょう」
「が、それにしちゃア去年から、何故お前は変わったんだ!」
「はい、変わったとおっしゃいますと」
「何故時々家を抜ける」
小次郎はじっ[#「じっ」に傍点]と俯向いている。
「永い時は十日二十日、どこへ行ったか姿も見せねえ。……それに聞きゃあ右の腕へ刺青《ほりもの》をしたっていうことだがお前役者を止める気か! 止める意《つもり》なら文句はねえ。よしまた役者を止めねえにしても俺の家へは置けねえからな! もっともすぐに上覧芝居、こいつに抜けては気が悪かろう。まあ万事はその後だ。……部屋へ帰って考えるがいい」
「おい待ちねえ!」
と団十郎は、行きかかる小次郎を呼び止めた。
「少しはアタリがついたのかい※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「え?」
といって振り返るところを、団十郎は押っ冠せ、
「
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