い! そもそも医師は長袖《ながそで》の身分、武士の作法を存ぜぬと思えば過言の罪は許しても進ぜる。早々ここを立ち去らばよし、尚とやかく申そうなら隣家の交際《つきあい》も今日限り、刀をもってお相手致す! 何とでござるな! ご返答なされ!」
提《さ》げて出た刀に反《そり》を打たせ、グッと睨んだ眼付きには物凄じいものがあった。文は元より武道においても小野二郎右衛門の門下として小野派一刀流では免許ではないが上目録まで取った腕前、体に五分の隙もない。
魂を奪われた専斎が家人を引き連れ呆々《ほうほう》の態《てい》で、自分の邸へ引き上げたのは、まさにもっともの事であるがその後ろ姿を見送ると、さすがに気の毒に思ったか、ニヤリ紋太郎は苦笑した。
「これは少々嚇しすぎたかな。いやいや時にはやった方がいい。陽明学の活法じゃ」
……で、クルリと身を飜《ひるがえ》し自分の部屋へはいって行った。
貧乏神の姿が見えない。
「おやおやいつの間にか立ち去ったと見える」
用人三右衛門がはいって来た。
「おお三右衛、聞くことがある。貧乏神はどこへ行かれたな?」
「へ? 何でございますかな?」
「ここにおられたお客様だ」
「ああそのお方でござりますか。さっきお帰りになられました。綺麗な小粋《こいき》な若いお方で」
「え? なんだって? 若い方だって?」
「はいさようでございますよ」
秘密の端緒をようやく発見
「いいや違う。穢《きたな》い老人だ」
「何を旦那様おっしゃることやら。ええとそれからそのお方がこういうものを置いてゆかれました。旦那様へ上げろとおっしゃいましてね」
云い云い三右衛門の取り出したのは美しい一枚の役者絵であった。すなわち蝶香楼国貞筆、勝頼に扮した坂東三津太郎……実にその人の似顔絵であった。
「貧乏神が役者絵をくれる。……どうも俺には解らない」
紋太郎は不思議そうに呟いたが、まことにもっとものことである。
「お役付きにもなりましたし、お役料も上がりますし、せめて庭などお手入れなされたら」
用人三右衛門の進めに従い、庭へ庭師を入れることにした。
紋太郎|自《みずか》ら庭へ出てあれこれ[#「あれこれ」に傍点]と指図をするのであった。
ちょうど昼飯の時分であったが、紋太郎は何気なく庭師に訊いた。
「ええ、そち達は商売がら山手辺のお邸へも時々仕事にはいるであろうな?」
「はい、それはもうはいりますとも」
五十年輩の親方が窮屈そうにいったものである。
「つかぬ[#「つかぬ」に傍点]事を訊くようだが、百畳敷というような大きな座敷を普請したのを今頃《このごろ》どこかで見掛けなかったかな?」
「百畳敷? 途方もねえ」親方はさもさも驚いたように、「おいお前達心当りはないかな? あったら旦那様に申し上げるがいい」
二人の弟子を見返った。
「へえ」といって若い弟子はちょっと顔を見合わせたが、
「実は一軒ございますので」
長吉というのがやがていった。
「おおあるか? どこにあるな?」
「へえ、本郷にございます」
「うむ、本郷か、何んという家だな?」
「へい、写山楼と申します」
「写山楼? ふうむ、写山楼?」紋太郎はしばらく考えていたがにわかにポンと膝を打った。
「聞いた名だと思ったが写山楼なら知っている」
「へえ、旦那様はご存知で?」
「文晁《ぶんちょう》先生のお邸であろう?」
「へえへえ、さようでござりますよ」
「※[#「睫」の「目」に代えて「虫」、80−14]叟無二《しょうそうむに》、画学斎、いろいろの雅号を持っておられるが、画房は写山楼と名付けられた筈だ。……ふうむ、さようか、写山楼で、さような大普請をなされたかな。……えっと、ところで、その写山楼に、痩せた気味の悪い老人が一人住んではいないかな?」
「さあそいつは解らねえ。何しろあそこのお邸へは、種々雑多な人間がのべつ[#「のべつ」に傍点]にお出入りするのでね」――職人だけに物のいい方が、飾り気がなくぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]である。
「おお、そうであろうそうであろう。これは聞く方が悪かった。……文晁先生は当代の巨匠、先生の一|顧《こ》を受けようと、あらゆる階級の人間が伺向するということだ」
「へえへえ旦那のおっしゃる通りいろいろの人が参詣します。武士《りゃんこ》も行くし商人《あきんど》も行くし、茶屋の女将《おかみ》や力士《すもうとり》や俳優《やくしゃ》なんかも参りますよ。ええとそれからヤットーの先生。……」
「何だそれは? ヤットーとは?」
「剣術使いでございますよ」
「剣術使いがヤットーか、なるほどこれは面白いな」
「ヤットー、ヤットー、お面お胴。こういって撲りっこをしますからね」
「それがすなわち剣術の稽古だ」
「それじゃ旦那もおやりですかね?」
「俺もやる。なかな
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