で」ひょこん[#「ひょこん」に傍点]と一つ頭を下げ、「泥棒なら向こうへ行きやしたぜ」主屋の方を指差した。
「うん、そうか」と行きかかる。とたんに聞こえて来る専斎の声。
「その爺《おやじ》を捕まえろ! その爺が泥棒だ!」
あっ[#「あっ」に傍点]と云って振り返った時には、爺の姿は遙か向こうの塀の裾に見えていた。それ[#「それ」に傍点]っと云うので追っかける。その後から専斎が喘《あえ》ぎ喘ぎ走る。
貧乏神は塀際に立ち、一丈に余る黒板塀をじっとその眼で計っていたが、若々しい鋭い元気のよい声で「ヤッ」と一声かけたかと思うと手掛かりもない塀の面をスーッと頂上《てっぺん》まで駈け上がったがそこでぐるり[#「ぐるり」に傍点]と振り返り、きわめて劇的の身振りをすると、
「馬鹿め! アッハハ」と哄笑し、笑いの声の消えないうちに隣家の庭へ飛び下りた。
ようやく駈け付けた専斎は、
「藪殿! 藪殿! ご隣家の藪殿!」涸れ声を絞って呼びかけた。「賊がそちらへ逃げ込んでござる! 取り抑えくだされ取り抑えくだされ! それ一同表へ廻り藪殿お邸へ取り詰めるがよい!」
この時紋太郎は部屋にいたが、「泥棒!」という声を聞くとすぐ縁側へ出て行った。
「また賊がご隣家へはいったそうな。よくよく泥棒に縁があると見える」
呟きながら佇んでいると、庭を隔てた黒塀の上へ突然人影が現われた。
「さてこそ賊」と庭下駄を穿き庭を突っ切り追い逼ったが奇妙にも賊は逃げようともしない。
「藪殿か。私《わし》じゃ私じゃ」
ヌッと顔を突き出した。
「おおあなたは貧乏神様で?」紋太郎はすっかり胆を潰した。
「さようさようその貧乏神じゃ。……何んとその後はいかがじゃな?」
「はい、近頃はお陰をもって……」
「ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より重畳《ちょうじょう》重畳。みんな私のお陰じゃぞよ。なんとそうではあるまいかな。数代つづいて巣食っていた貧乏神が出て行ったからじゃ」
「仰せの通りにござります」
「で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?」
「はいはい、ご恩がございますとも」
「では、返して貰おうかな?」
「しかし、返せとおっしゃられても……」
「何んでもござらぬ。隠匿《かくま》ってくだされ」
「はて隠匿《かくま》うとおっしゃいますのは? ああ解りました。では[#「では」に傍点]あなた様は、また当邸へおいでなさる気で?」
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ[#「ヘボ」に傍点]医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」
隣家の誼みも今日限り
「みんなこの私のさせる業《わざ》じゃ」
「ははア、さようでござりましたかな」
「どうも彼奴は乱暴で困る」
「さして乱暴とも見えませぬが……」
「私を泥棒じゃと吐《ぬか》しおる」
「なるほど、それは不届き千万」
「今私は追われている」
「それはお困りでござりましょうな」
「で、どうぞ隠《かくま》ってくだされ」
「いと易いこと。どうぞこちらへ」
――で、紋太郎は先に立ち自分の部屋へはいって行った。
おりから玄関に訪《おと》なう声。
「藪殿藪殿! 御意《ぎょい》得たい! 専斎でござる。隣家の専斎で」
「これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?」
悠々と紋太郎は玄関へ出た。
「賊でござる! 賊がはいってござる!」
医師専斎は血相を変え、弟子や家の者を背後《うしろ》に従え玄関先で怒鳴るのであった。
「拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら」
「そうではござらぬ! そうではござらぬ!」
専斎はいよいよ狼狽し、
「賊のはいったは愚老の邸。盗んだものは六歌仙の軸……」
「アッハハハ」とそれを聞くと紋太郎はにわかに哄笑した。「専斎殿、年甲斐もない、何をキョトキョト周章《あわ》てなさる。貴殿の邸へはいった賊をここへ探しに参られたとて、何んで賊が出ましょうぞ」
「いや」と専斉は歯痒そうに、「賊はこちらへ逃げ込んだのでござるよ!」
「ほほう、どこから逃げ込みましたかな?」
「黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました」
「それは何かの間違いでござろう。……拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など藉《か》りにも見掛けは致しませぬ」
「そんな筈はない!」
と威猛高に、専斎は怒声を高めたが、
「お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!」
「黙らっせえ!」
と紋太郎、いつもの柔和に引き換えて一句烈しく喝破した。「たとえ隣家の誼《よし》みはあろうとそれはそれこれはこれ、かりにも武士の邸内を家探ししようとは出過ぎた振る舞
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