この物語のいわゆる大切のタネなのである。
「これは変わった註文じゃの」
信輔も酷《ひど》く驚いたらしい。
「それに致してもどういうところからそういう心になったのじゃな?」
「別に訳とてはござりませぬがただ私めはそう致した方が子孫のためかと存じまして」
「子孫のためだと? これはおかしい。そっくり財宝《たから》を譲った方がどんなにか子供達は喜ぶかしれぬ」
「仰せの通りにござります。恐らく子供達は喜びましょう。それがいけないのでござります」
「はてな? 麿《まろ》には解らぬが」
「家財を受け継いだ子供達は、その家財を無駄に使い、世を害するに相違ござりませぬ。必ず他人《ひと》にも怨まれましょう。破滅の基でござります。それに第一私一代でこの商法は止めに致したく考えおります次第でもあり」
「それではいよいよそうするか」
「是非お願い致します」
「しかしどうもそれにしても変な絵巻を頼まれたものじゃ。まるでこれでは判じ絵だからの。……よしよし他ならぬお前の依頼《たのみ》じゃ。大いに腕を揮《ふる》うとしようぞ」
「そこでいつ頃出来ましょうか?」
「一人を仕上げるに一月はかかろう?」
「では六ヵ月後に参ります」
「六人描くのだから六ヵ月後だな」
「何分お願い申し上げます。その間に私めも家財の方を処分致す意《つもり》にござります」
馬飼吉備彦は帰って行った。
(かくて月日に関守《せきもり》なく五月あまり一月の日はあわただしくも過ぎにけらし)と昔の文章なら書くところである……吉備彦は宇治から京へ出た。
「おお吉備彦か、よく参った。約束通り描いておいたぞ」
信輔卿は一巻の絵巻を吉備彦の前へ押し拡げた。
それは六歌仙の絵であった。……在原業平《ありわらのなりひら》、僧正遍昭《そうじょうへんじょう》、喜撰法師《きせんほうし》、文屋康秀《ふんやのやすひで》、大友黒主《おおとものくろぬし》、小野小町《おののこまち》……六人の姿が描かれてある。
この謎語なんと解こう
馬飼吉備彦の財産がどのくらいあったかというようなことは僕といえども明瞭には知らぬ。とまれ素晴らしい額であり紀文、奈良茂、三井、三菱、ないし藤田、鈴木などよりもっともっと輪をかけた富豪であったということである。しかし当時の記録にも古文書などにも吉備彦の事はなんら一行も書いてない。で意地の悪い読者の中にはこの事実を楯に取って吉備彦などと云う人間は存在しなかったとおっしゃるかもしれない。よろしい、僕はそういう人にはこういうことを云ってやろうと思う。
藤原時代の歴史たるや悉く貴族の歴史であって民衆の歴史ではなかったからだと。
吉備彦は富豪ではあったけれど貴族ではなくて賤民であった。綽名《あだな》を牛丸というだけあって彼の職業は牛飼いであった。姓を馬飼《うまかい》と云いながら牛を飼うとはコレいかに? と、皮肉な読者は突っ込むかも知れないが、事実彼の商売は卑しい卑しい牛飼いであった。無論傍ら金貸しもした。
そういう卑しい賤民のことが貴族歴史へ載る筈があろうか。
さて、吉備彦は家へ帰ると六人の子供を呼び集めた。県《あがた》、赤魚《あかえ》、月丸《つきまる》、鯖《さば》、小次郎《こじろう》、お小夜《さよ》の六人である。お小夜だけが女である。
「ここに六歌仙の絵巻がある。お前達六人にこれをくれる。大事にかけて持っているがいい。……俺は今無財産だ? 俺は家財を棄ててしまった。いやある所へ隠したのだ。俺からお前達へ譲るものといえばこの絵巻一巻だけだ。大事にかけて持っているがいい。……ところで俺は旅へ出るから家を出た日を命日と思って時々線香でもあげてくれ」
これが吉備彦の遺訓であった。
吉備彦は翌日家を出た。
鈴鹿峠までやって来ると山賊どもに襲われた。山賊に斬られて呼吸《いき》を引き取る時こういったということである。
「道標《みちしるべ》、畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
まことに変な言葉ではある。
山賊の頭は世に轟いた明神太郎という豪の者であったが、ひどくこの言葉を面白がって、時々真似をして喜んだそうだ。で、手下どももいつの間にかお頭《かしら》の口真似をするようになり、それがだんだん拡がって日本全国の盗賊達までその口真似をするようになった。
「道標《みちしるべ》。畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
この暗示的な謎のような言葉は爾来代々の盗賊によっていい伝えられ語り継がれて来て、源平時代、北条時代、足利時代、戦国時代、豊臣時代を経過してとうとう徳川も幕末に近い文政時代まで伝わって来た。
そうして文政の某年に至って一つの事件を産むことになったが、その事件を語る前に例の六歌仙の絵巻について少しくお喋舌《しゃべ》りをする
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