を云うと却って用人三右衛門の方が昔と反対《あべこべ》に慰めるのであった。
「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」
「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」
「へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命《いのち》の糧《かて》でございますもの」
「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」


    大御所家斉公

 ある日、紋太郎は吹筒を携《たずさ》え多摩川の方へ出かけて行った。
 多摩川に曝《さら》す手作りさらさらに何ぞこの女《こ》の許多《ここだ》恋《かな》しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。
「さてそろそろ帰ろうかな」
 こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸《ひわ》、鶫《つぐみ》、※[#「けものへん+葛」、第3水準1−87−81]《かり》などがはち切れるほどに詰まっていた。
 林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
 その一群れは足並揃えて粛々《しゅくしゅく》とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美《きらびやか》の服装《よそおい》である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌《かお》は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付《たっつけ》、揃いの笠で半面を蔽い、寛《くつろ》いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
 紋太郎は心中|審《いぶか》りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。
 鷹狩りの群れは近寄って来る。
 近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金《きん》蒔絵《まきえ》されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!
 紋太郎はハッと呼吸《いき》を呑んだ。持
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