と「爺つあん」は、夜具から体を抜け出させたが「ほんとにお前が知っているなら、どうぞ俺に話してくれ。お願いだ、話してくれ。え、紫錦はどこにいるんだ?」
「だが紫錦さんの在所《ありか》を聞いて「爺つあん」お前はどうする意《つもり》だな」
「どうしてもいい、教えてくれ! え、紫錦はどこにいるな?」
「お気の毒だが教えられねえ」にべもなくトン公は突っ刎ねた。
「教えられねえ? 何故教えられねえ?」
「お前の本心が解《わか》らねえからよ」
「俺の本心だって? え、本心だって?」
「今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福《しあわせ》なのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうも酷《ひど》く破壊《こわれ》やすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここに幸《しあわせ》のことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな」
「だが」と「爺つあん」は遮った。「だが俺はお前の云う、よくねえ奴じゃねえんだからな。だから明かしたっていいじゃねえか」
「どうしてそれが解るものか」
「じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?」
「俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか」
「だが、そいつは昔のことだ」
「ああそうか、昔のことか」
「今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ」
「そうだと思った。そうなくちゃならねえ。だが「爺つあん」それにしてもだ、紫錦さんの居場所を俺らから聞いて一体どうするつもりだな?」
すると「爺つあん」は声を窃《ひそ》め、四辺《あたり》をしばらく見廻してから「人に云っちゃいけねえぜ。え、トン公承知だろうな。……実は俺はその紫錦に大事な物を譲りてえのだ」
「だがお前と紫錦さんとはどんな関係があるんだろう?」
「それは云えねえ。云う必要もねえ」いくらか「爺つあん」はムッとしたらしい。
「とにかく」と「爺つあん」は云いつづけた。「それを譲られると譲られた時から、紫錦は幸福になれるんだよ」
「……」トン公は黙って考え込んだ。どうやら疑っているらしい。しかしとうとうこう云った。
「俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう」
「おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?」
「江戸にいるよ。この江戸にな」
「江戸はどこだ? え、江戸は?」
「日本橋だよ。酒屋にいるんだ」
「日本橋の酒屋だって?」
「伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ」
「ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった」
葉村《はむら》一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。
驚いたのはトン公であった。ポカンと「爺つあん」を眺めやった。
9
チョンチョンチョンと拍子木の音がどこからともなく聞こえてきた。
「おや、どうしたんだろう? あの拍子木の音は?」
お錦は呟いて耳を澄ました。
「トン公の拍子木に相違ないよ」
そこで彼女は部屋を抜け出し裏庭の方へ行って見た。木戸の向うに人影が見えた。下駄を突っかけると飛石伝いに窃《そっ》と其方《そっち》へ小走って行った。燈火《ともしび》の射さない暗い露路に小供が一人立っていたが、しかしそれは小供ではなく思った通りトン公であった。
「トン公じゃないか、どうしたのさ?」
するとトン公は近寄って来、
「よく拍子木が解《わか》ったな」
「お前の打手を忘れるものかよ」
「実は急に逢いたくってな、それで呼び出しをしたやつさ」
「用でもあるの? お話しおしよ」
「ねえ紫錦《しきん》さん、俺らと一緒に、ちょっとそこ迄行ってくれないか」四辺《あたり》を憚ってトン公は云った。
「行ってもいいがね、どこへ行くの?」
「金龍山瓦町《きんりうざんかわらまち》[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]へよ」
「浅草じゃないか、随分遠いね、それにこんなに晩になって」お錦は怪訝そうに云うのであった。
「それがね、至急を要するんだ」
「へえ不思議だね、何の用さ」
「逢いてえって人があるんだよ。是非お前《めえ》に逢い度えって人がな。それが気の毒な病人なんだ」
「誰だろう? 知ってる人?」
「お前の方じゃ知らねえだろうよ。だが確かな人間だ。実は俺らの親方なのさ」
「お前の親方? 玉乗りのかい?」
「ああそうだよ。葉村《は
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