「どうともなれ。勝手にしやアがれ」
そこは小屋者の猛烈性で、こんな事を思いながら、案外|暢気《のんき》に寝そべっていた。
「ご大家様のお坊ちゃん、今こそ妾《わたし》に夢中になって、夫婦になろうの駆落しようのと、血道をあげているけれど、その中《うち》きっと厭になるよ。そうしたら捨てるに違いない。捨てられたら元々通り小屋者の身分へ帰らなけりゃならない。いつ迄も小屋者でいるくらいなら、死んだ方が増じゃないか」
雨と泡沫《しぶき》で彼女の体は、漬けたように濡れてしまった。
「おや」
と彼女は顔を上げた。空が俄かに赤くなったからで、見れば遙か町の一点が、焔を上げて燃えていた。
「おやおやこんな晩に火事を出したんだよ。何て間抜けな人足だろう。アラ、驚いた、小屋じゃないか!」
正《まさ》しく火事を出したのは、女軽業の掛小屋であった。
役人達が遣って来て、立退きを命ずると、急に彼等は周章《あわ》て出した。そうして役人に反抗し、突然小屋へ火を掛けた。これには役人達も驚いたが、しかし事情はすぐ解《わか》った。この時代の小屋者の常で、彼等は反面、賊でもあった。で盗み蓄めた品物が、小屋に隠されてあったのである。
つまり贓物《ぞうぶつ》[#「贓物」は底本では「臓物」]を焼き払い、証拠を湮滅させようため、わざと小屋へ火を掛けたのであった。
それと感付くと役人達は、がぜん態度を一変させ、彼等を捕縛《とら》えようと犇《ひし》めいた。
彼等は男女取り雑《ま》ぜて三十人余りの人数であった。それに馬が二頭いた。それから白という猛犬がいた。それから例の鼬がいた。これらのものが一斉に、役人達に敵対した。彼等は武器を持っていた。商売用の刀や匕首《あいくち》や、竹槍などを持っていた。
どんなに彼等が凶暴でも、三十人こっきり[#「こっきり」に傍点]であったなら、捕縛えるに苦労はしなかったろう。しかるにここに困ったことには味方する者が現われた。
当時諏訪藩は佐幕党として、勤王派に睨まれていた。で安政《あんせい》年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉《たかくら》三位と宣《なの》る公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵《さがらそうぞう》が浪士を率《ひき》い、下諏訪の地に陣取って乱暴したのもこの頃であった。
それで、この事件の起こった時でも、勤王派の浪士達が、様々の者に姿を窶《やつ》し、城下の諸方に入り込んでいたが、これが小屋者の味方となって、役人方に斬り込んだ。
それに城下の町人達の中にも、味方する者が出来てきて、石礫を投げ出した。
事態重大と見て取って、城下からは兵が出た。
内乱と云えばそうも云え、市街戦と云えばそうも云える。思いも由《よ》らない大事件が、計らず勃発したのであった。
城兵かそれとも浪士達か、鉄砲を打ち出したものがあった。
と、火事が飛火した。女の悲鳴、子供の泣声、避難する人々の喚《わめ》き声が、山に湖面に反響した。
この時一人の若者が、逃げ惑う人々を押し退けて、小屋の方へ走って行った。
他でもない伊太郎で、恋人の安否を気遣って、家を抜け出して来たのであった。
小屋は大半焼け落ちていて、焔の柱、煙の渦巻……その中で戦いが行なわれていた。
役人の一人を殺し、血だらけの竹槍を振りかざしながら、荒れ廻っていた小屋掛があったが、伊太郎の姿に眼を付けると、
「野郎!」
と叫んで飛び掛かって行った。余人ならぬ源太夫であった。
「紫錦さんは※[#感嘆符二つ、1−8−75] 紫錦さんは※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「何を吠《ほざ》く! 死《くたば》ってしまえ!」
源太夫は伊太郎の襟上を掴むと、ズルズルと火の中へ引き込もうとした。
と、焔に狂気しながら、馬が一頭走り出して来た。
「嬲殺しだ! 思い知れ!」
伊太郎は馬の背へ括り付けられた。
「ヤッ」と叫ぶと源太夫は竹槍で馬の尻を突いた。
馬は驀地《まっしぐら》に狂奔し、湖水の中へ飛び込んだ。
ワッワッと云う鬨声《ときのこえ》。火事は四方へ飛火した。
5
湖水は猛烈に荒れていた。火事は益々燃え拡がった。物凄くもあれば美しくもあった。
紫錦は小舟に取り付いたまま浪の荒れるに委せていた。火事の光が水に映り四辺《あたり》が茫《ぼっ》と明るかった。
その時何物か浪を分けて彼女の方へ来るものがあった。
「おや、馬だよ。馬が泳いで来る」
いかにもそれは馬であった。
「おや。黒《あお》だよ、黒来い来い!」
紫錦《しきん》は喜んで声を上げた。
馬は馴染の黒であった。つまり彼女が芸当をする時、時々乗った馬であった。近付くままによく見ると誰やら馬の背にくくり[#「くくり」に傍点]付けられていた。それが恋人の伊太郎であると火
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