、別の方面から起こってきた。
 それは実に嘉永《かえい》元年夏の初めのことであったが、母のお琴《こと》はお染を抱きながら、裏庭の縁で涼んでいた。すると最初口笛が聞こえ、次に鼬《いたち》が現われた。アッと驚く隙《ひま》もなく鼬はお染へ噛みついた。幸い手当が速かったので、腕へ歯形が印《つ》いただけで、生命《いのち》には何の別状もなかった。ところが何と奇怪なことには、その翌晩にも口笛が聞こえ、同じ鼬が現われたではないか。そうして鼬はお染を追って、庭の植込の方へ行ったかと思うと、お染の姿が消えてしまった。
 ちょうどこの頃城下|外《はず》れに女軽業の大一座が小屋掛けをして景気《けいき》を呼んでいた。女太夫の美しいのも勿論評判ではあったけれど、四尺に余る大鼬が、口笛に連れて躍るというのがとりわけ人気を博していた。
 それで、自然疑いがその一座へかかって行った。官《かん》からも役人が出張し、厳重に小屋を吟味した。しかしお染はいなかった。誘拐したという証拠もない。どうすることも出来なかった。
 伊丹屋夫婦の悲嘆にも増して、藤九郎の悲嘆は大きかった。
「彼奴《あいつ》は有名な悪党なんですよ。ええ、あの一座の親方って奴はね。ちょっと私とも知己《しりあい》なんで。釜無《かまなし》の文《ぶん》というんでさ。……ああ本当に飛んだことをした。みんな私が悪かったんで、つい迂闊《うっか》り口を走《すべ》らしたんでね」
 彼はこう云って口惜《くや》しがった。
 その後伊丹屋では親類から、伊太郎という養子を迎え、間もなく江戸へ移り住んだが、お染のことは今日が日まで忘れたことはないのであった。
「……こういう事情があるのだもの、妾《わたし》が鼬を恐がったり、女軽業を憎むのは、ちっとも無理ではないじゃないかえ」
 母のお琴は辛そうに云った。
「だからさ、お前もその意《つもり》で、そんな小屋者の紫錦《しきん》なんて女を、近付けないようにしておくれよ。どうぞどうぞお願いですからね」
「だってお母さん不可《いけ》ませんよ」伊太郎はやっぱり反対した。「私は紫錦が好きなんですもの。それにその女は見た所、悪い女じゃありませんよ」
「きっと悪い女ですよ」
「第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ」
「鼬を使うとお云いじゃないか」
「それだって別の鼬ですよ」
「いいえ同じ鼬です。妾《わたし》見たから知っています」
 お琴は飽く迄も云うのであった。

 紫錦はこれ迄は源太夫《げんだゆう》を別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。
「甚助《じんすけ》め! 飛んでもねえ奴だ!」
 そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。
 その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱の質《たち》であった。朋輩|交際《つきあい》で芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]惚れ込んだのであった。
 こういう男女の落ち行く先は、古来往来《ここんおうらい》同一《ひとつ》である。夫婦になれなければ心中である。
 驚いたのはお琴であった。
 彼女は窃《こっそ》り訴え出た。「娘を誘拐《かどわか》した同じ一座が、今度は息子を誑《たぶら》かそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。
 勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。
 この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。
 鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判が可《よ》かった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻《さかねじ》を喰らう。
 で疾風迅雷的に、やっつけよう[#「やっつけよう」に傍点]と云うことになった。

 その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。
 湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんより[#「どんより」に傍点]と曇り、今にも降ってきそうであった。
 伊太郎を家《うち》へ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐が颯《さっ》と吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々|漁舟《いさりぶね》を覆えした。
「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。
 次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂《ろかい》が役に立たなくなった。
「どうしよう」
 と紫錦は周章《あわ》てながらなおしばらくは櫓を漕いだ。
 しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆《よこた》えた。
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