逃がしたら取り返しは付かねえ」
源太夫はそっちへ眼をやった。
「ふん、女に惚れているんだな」
「あたりめえだ、惚れてるとも、だから苦心して取り返したんだ」
「だが宜《よ》くねえぜ、そういう惚《ほ》れ方は、古い惚れ方っていうやつだ[#「やつだ」に傍点]」
源太夫はその眼を光らせたが
「じゃ何が新らしいんだ」
「お前は承知させて、それからにしようって云うんだろう? だめだよだめだよそんなことは……」
「俺には出来ねえ、殺生な真似はな」
「じゃあお前は縮尻《しくじる》ぜ」
源太夫は返辞《いらえ》をしなかった。
「叩かれると犬は従《つ》いて来る。撫《さ》すると犬は喰らいつく。……」
源太夫は考え込んだが、突然飛び上り喚声をあげた。
「お前の云うことは嘘じゃねえ!」
23[#「23」は縦中横]
この時二階の一室では、最後の節が唄われていた。
小堀義哉《こぼりよしや》の心の中は泉のように澄んでいた。
なんの雑念も混じっていなかった。死に面接した瞬間に、人間の真価は現われる。驚くもの恐れるもの、もがく[#「もがく」に傍点]もの泣き叫ぶもの、そうして冷やかに傍観するもの、又突然|悟入《ごにゅう》するもの、しかし義哉の心持は、いずれにもはまっていなかった。彼は三味線の芸術境に、没頭三昧することによって、すべてを忘れているのであった。
『山姥《やまうば》』の曲が終ると同時に、彼は死ななければならなかった。そうして殺し手が白刄を提《さ》げ、彼の背後に立っていた。
時はズンズン経って行った。
もう直ぐ曲は終わるのである。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]露《つゆ》にもぬれてしっぽりと、伏猪《ふすい》の床の菊がさね……
[#ここで字下げ終わり]
彼は悠々と唄いつづけた。
異風変相の浪士達にも、名人の至芸は解《わか》ると見えて、首を垂れて聞き惚れていた。
独楽師に扮した一人の浪士は「旨い!」と思わず呟いた、居合抜に※[#「にんべん+肖」、第4水準2−1−52]《やつ》したもう一人の浪士は、「ウーン」と深い呻声を洩らし、商人に扮した二人の浪士は顔と顔とを見合わせた。
一座の頭領と思われる、琵琶師風の一浪士は、刀の柄を握ったまま堅くその眼を閉じていた。
時はズンズン経って行った。
伊庭八郎とその同志は、勝安房守の指図の下に、毛脛屋敷の表戸を、踏
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