その眼は消えていた。
15[#「15」は縦中横]
やがて夕暮がやって来た。お暇をしなければならなかった。充分の未練を後へ残し、お錦は駕籠で帰って行った。
「よこしまの美であろうとも、美人はやっぱり好ましいものだ」
義哉《よしや》はこんなことを想いながら、部屋に残っている脂粉の香に、うっとりと心をときめかした。
思い出して三味線を取り上げると、さっきの続きを弾き出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]雁がとどけし玉章《たまづさ》は、小萩のたもとかるやかに、へんじ紫苑《しおん》も朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
[#ここで字下げ終わり]
ちょうどここまで引いて来た時、どうしたものか一の絃が、鈍い音を立ててブッツリと切れた。
「これはおかしい」と云いながら三味線の棹を膝へのせ、義哉は小首をかたむけた。
「一の絃の切れるのは、芽出度いことになっているが、どうもそうとは思われない」彼は何となく不安になった。「変ったことでもなければよいが」
帰って行ったお錦のことが、妙に気になってならなかった。で、三味線を掻いて遺ると彼は急いで立ち上った。
「お花お花」と小間使を呼び「ちょっと私は出てくるからね。この手箱をしまっておくれ」
云いすてとつかわ[#「とつかわ」に傍点]家を出ると、愛宕《あたご》下の方へ足を向けた。
暮れそうで暮れない春の日も、愛宕下へ来た頃には、もうすっかり暮れてしまって、人の顔さえさだか[#「さだか」に傍点]でなかった。その時こんもりと繁り合った、林の中から云い争うような男女の声が聞こえてきた。
さてこそ[#「さてこそ」に傍点]! というような気持がして、義哉はそっち[#「そっち」に傍点]へ走って行った。
そこは林のずっと奥で、丘になろうとする傾斜地であったが、香具師《やし》風をした八九人の男が、一人の娘を真中に取り込め、口汚く罵っていた。その娘はお錦であった。それと見て取った小堀義哉は、足音荒く走り寄ったが、
「この破落戸《ならずもの》!」と一喝した。
しかしこれは悪かった。破落戸のうち四五人の者が、急に彼の方へ向かって来た。そうして後の四五人は、お錦を宙へ吊るすようにして、一散に丘の方へ走り出した。ならずもの[#「ならずもの」に傍点]などと声をかけずに、忍び寄って一刀に、彼らの一人を斬ったなら、彼らは恐れて逃げ
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