ろう?」
 お錦はひどく[#「ひどく」に傍点]吃驚《びっくり》した。
 勿論彼女には見覚えはない。初めて会った老人である。
「どうして涙なんか零すんだろう? 妾《わたし》をどう思っているのだろう? 気味の悪い爺さんだよ」
 こう思わざるを得なかった。
「トン公」やがて「爺つあん」は云って「ちょっとこの場を外してくれ。ナーニ大丈夫だ、心配しなくてもいい。ただちょっと話すだけだ」
「「爺つあん」のことだ、ああいいとも」
 トン公は云いすてて出て行った。
 後を見送った「爺つあん」は、その眼を返すとお錦の顔を、またもじっと見守ったが、
「おお紫錦、大きくなったなあ」
 不意に優しくこう云った。いかにも親し気な調子であり、慈愛に充ちた調子であった。
 お錦にとっては意外であった。何の理由で、何の権利で、紫錦などと呼び捨てにするのだろう? で彼女は不快そうに顔をそむけ[#「そむけ」に傍点]て黙っていた。
「それに、ほんとに、立派になったなあ」
 また「爺つあん」はこう云った。感情に充ちた声である。
「いらざるお世話で、莫迦にしているよ」いよいよ慣れ慣れしい相手の様子に、彼女は一層腹を立て、心の中でこう怒鳴《どな》ったが、でもやっぱり黙っていた。
 しかし「爺つあん」は態度を変えず、同じ調子で云いつづけた。「聞けばお前は日本橋の伊丹屋さんにいるそうだが、この上もない結構なことだ。辛抱して可愛がられ、嫁になるように心掛けなければならねえ」ここでちょっと言葉を切ったが、「ところでお前は二の腕に、大きな痣があるだろうな?」
「ええ」と初めてお錦は云った。「大きな痣がありますわ。どうしてそんなこと知っているんでしょう?」
「私はな」と「爺つあん」は微笑しながら「そうだ、私はな、お前のことなら、どんなことでも知ってるよ」
 確信のあるらしい調子であった。
 で、お錦は怪しみながらも改めてつくづくと「爺つあん」を見た。しかしやはりその老人は、彼女にとっては見覚えがなかった。

11[#「11」は縦中横]

「紫錦《しきん》」と「爺《とっ》つあん」は云いつづけた。「俺の命は永かあねえ、胃の腑に腫物《できもの》が出来たんだからな。で俺はじきに死ぬ。また死んでも惜しかあねえ。俺のような悪党は、なるだけ早く死んだ方が、かえって人助けというものだ。それで死ぬのは惜しかあねえが、ここに一つ惜しいものが
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