「でも一座の連中で、お前のことを悪く云う者は、それこそ一人だってありゃアしねえよ」
「それは俺らが座主だからだろう」
「ああそれもあるけれどね……」
「うっかり俺の悪口でも云って、そいつを俺に聞かれたが最後、首を切られると思うからさ」
「ああそいつ[#「そいつ」に傍点]もあるけれどね……」
「それより他に何があるものか」
「金を貸すからいい親方だと、こうみんな云っているよ」
「アッハハハ、そうだろう。その辺りがオチというものだ。ところでそういう人間のことだ、俺が金を貸さなくなったら、今度は悪口を云うだろうよ」
「ああそりゃあ云うだろうよ」トン公は直ぐに妥協した。それが「爺つあん」には可笑しかったか面白そうに笑ったが、
「トン公、お前は正直者だな。だから俺はお前が好きだ」
「ううん、何だか解《わか》るものか」それでもトン公は嬉しそうに笑った。
「うんにゃ、俺はお前が好きだ。その剽軽な巾着頭《きんちゃくあたま》、そいつを見ていると好い気持になる」
「何だ俺らを嬲るのけえ」トン公は厭な顔をした。
「怒っちゃいけねえいけねえ。本当のことだ、なんの嬲るものか。それはそうと、なあトン公、お前は随分苦労したらしいな」



「ああ随分苦労したよ」トン公はちょっと寂しそうにした。
「俺らの一座へ来る前には、お前《めえ》どこの座にいたな?」
「俺ら軽業の一座にいたよ」
「軽業の一座? ふうん、誰のな?」
「「釜無《かまなし》の文《ぶん》」の一座にだよ」
 これを聞くと「爺つあん」は急にその眼を輝かせたが、すぐ気が付いてさり[#「さり」に傍点]気なく、
「ああそうか「釜無の文」か……ところで諏訪ではご難だったそうだな」
「お話にも何にもなりゃあしない」
「それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?」
「幾人もいたよ、綺麗な娘なら」
「それ、文の養女だとか云う?」
「ああそれじゃ紫錦《しきん》さんだ」
「うん、そうそうその紫錦よ、行衛《ゆくえ》が知れないって云うじゃないか」
 するとトン公は得意そうにニヤリとばかり一人笑いをしたが「ああ行衛が知れないよ。……だが俺らだけは知っている」
「え?」と、「爺つあん」は眼を丸くした。「お前知っているって? 紫錦の行衛を?」
 こう云う「爺つあん」の声の中には恐ろしい情熱が籠っていた。それがトン公を吃驚《びっくり》させた。
「おいトン公」
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