見たから知っています」
お琴は飽く迄も云うのであった。
紫錦はこれ迄は源太夫《げんだゆう》を別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。
「甚助《じんすけ》め! 飛んでもねえ奴だ!」
そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。
その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱の質《たち》であった。朋輩|交際《つきあい》で芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]惚れ込んだのであった。
こういう男女の落ち行く先は、古来往来《ここんおうらい》同一《ひとつ》である。夫婦になれなければ心中である。
驚いたのはお琴であった。
彼女は窃《こっそ》り訴え出た。「娘を誘拐《かどわか》した同じ一座が、今度は息子を誑《たぶら》かそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。
勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。
この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。
鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判が可《よ》かった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻《さかねじ》を喰らう。
で疾風迅雷的に、やっつけよう[#「やっつけよう」に傍点]と云うことになった。
その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。
湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんより[#「どんより」に傍点]と曇り、今にも降ってきそうであった。
伊太郎を家《うち》へ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐が颯《さっ》と吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々|漁舟《いさりぶね》を覆えした。
「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。
次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂《ろかい》が役に立たなくなった。
「どうしよう」
と紫錦は周章《あわ》てながらなおしばらくは櫓を漕いだ。
しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆《よこた》えた。
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