来る攻めて来る彼奴《きゃつ》らが!」
こんなことを口の中で呟いている。馬術は精妙、木立をくぐり、険路を突破して走って来る。
やがて間もなくこの伝騎は昆虫館へ馳せ付けるだろう、そうしたら何かが語られるだろう。美しい平和な昆虫館に、そのため騒動が起こらなければよいが。
伝騎が着いた。小男が叫んだ。――
「ご用心なさりませ、山尼《やまあま》の徒が、続々入り込んで参りました!」
十九
「昆虫館閉鎖は山尼《やまあま》の徒の為なり」
こう古文書に記されてある。
山尼というのは何んだろう? いわゆる山姥《やまうば》の別名なのだろうか? それはハッキリ解らない。とにかく山間に住んでいる、一種の神秘的の人間らしい。どうしてそういう山尼の徒が、昆虫館を閉ざしたのだろう? それもハッキリ解らない。ただし昆虫館を閉ざしたのは、むしろ館主自身なのであった。
「山尼の徒が攻めて来た!」――伝騎が昆虫館へ知らせて来ると共に、次のような事件が起こったのである。
(一)「とうとう俺の心配していた、恐ろしい敵が攻めて来た。戦えばこっちの負けである。彼らはこの俺から永生の蝶を、手放させようとしているのだ。これはどうでも放さなければならない」こう云いながら昆虫館館主が、一匹残っていた雌蝶の方を、空高く放してやった事。
(二)「昆虫館は閉鎖する。館民は自由に立ち去るがいい」こう云いながら昆虫館館主が、建物の内へ引き籠ったので、多くの集まっていた片輪者達が、館を見すてて立ち去った事。
(三)ただし助手の吉次だけが、一人頑固に居残った事。
(四)桔梗様も父の館主と共に、昆虫館の内へ籠ってしまった事。
(五)そこで一式小一郎は、一旦関宿へ引っ返し、水難を遁がれた英五郎や君江と、再び顔を合わせた事。
美しくて平和で神秘的であった昆虫館という別社会は、こうして実に一朝にして、寂寞の天地に化したのであった。
さてその日から十日ほど経ったあるよく晴れた快い日に、一人の武士が馬に乗り、一人の女馬子が手綱を引き、三浦半島の野の路を、江戸の方へ向かって辿っていた。
武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であった。
「もうお帰りなさいまし」こう云ったのは小一郎である。
君江は笑って聞こうともしない。「いいえお送り致します」
そこで小一郎は揶揄《からか》うように、「かえって迷惑でございますよ」
君江は承知だというように、「お気の毒さまでございますこと」
今度は小一郎怒ったように、「ちと無礼ではございませんかな」
「まんざらそうでもございますまい」君江は少しも動じない。
シャン、シャン、シャンと鈴の音、カバ、カバ、カバと蹄の音、二人の旅はつづいて行く。
「どこまでお送りくださるので?」やがて小一郎はこう訊いた。
「はい、どこへでも、あなたまかせ」君江の返辞はハッキリしている。
「拙者、江戸表へ帰ります」
「それでは江戸までお送りします」
「いささか執拗ではござらぬかな」小一郎は今度は窘《たしな》めにかかった。
「妾の性質でございます」依然として君江は驚かない。
「江戸までお送りくださるとして、一人で帰られるのは寂しかろうに」小一郎は今度は同情してしまった。
「何んの妾帰りましょう」
「え?」と小一郎は訊き返した。
「妾、いつまでもお側にいます」
「ははあさようで、それはそれは、しかし拙者は江戸へ帰れば、父の邸へ入るつもりで」
「お小間使いとなって住み込みます」君江は益※[#二の字点、1−2−22]長閑そうである。
「驚きましたな」と小一郎はほんとにひどく[#「ひどく」に傍点]驚いてしまった。「誰が小間使いに頼みますので?」
「ホ、ホ、ホ、ホ、あなた様が」
「いやはやどうも」と小一郎はさらに驚きを重ねたが、「拙者決して雇いませんな」
「何んのお雇いなさいますとも」君江はすっかり安心している。「こんないい小間使いでございますもの」
――どうにもこうにもやり切れない――小一郎は当惑したものである。そこで改めて云って見た。「いやいや拙者江戸へ帰っても、父の邸へは入りますまい。一戸を借り受け所帯を張ります。さよう剣術の道場をな、荒くれ男達が出入りしましょう」
こいつを聞くと娘の君江は、さも嬉しそうに晴々《はればれ》と云った。
「まあまあ結構でございますこと、それでは妾妹として、お勝手の切り盛りを致しましょう」
――最初《はな》からこの娘には嚇されたが、どうやら最後《きり》まで嚇されそうだ。――さすがの一式小一郎も、微苦笑せざるを得なかった。
二十
だが一式小一郎には、君江の心が解っていた。「無茶苦茶にこの俺を愛しているのさ」
そうしてそれは小一郎にとっては、決して不愉快ではないのであった。否々むしろ嬉しいのであった。
「何んと云っても風変りの娘さ。こんな娘と所帯を持ち、町家住居をやらかしたら、とんだ面白い日が暮らせるかもしれない」
そうはいっても小一郎には、桔梗様のことが忘れられなかった。「あの桔梗様の美しさは、いわば類《たぐい》稀れなるものだ。君江などとは比べものにはならない」とはいえ今に至っては、どうすることも出来なかった。「それにしてもどうして桔梗様は、この俺の恋を入れながら、この俺と一緒に来ようとはせず、昆虫館などへ残ったのだろう?」これがどうにも不平であった。「恋人の愛より親の愛の方が、魅力があったというものかな?」そうとしかとるより仕方なかった。「若い娘というものは、親の愛なんか蹴飛ばしても、愛人の方へ来るものだと、俺は今日まで思っていたが、どうもね、今度は失敗したよ」それが不服でならなかった。
にわかに小一郎は馬の上で、ク、ク、クッと笑い出してしまった。
「何んの馬鹿らしい、考えてみれば、せっかく昆虫館をさがし中《あ》てた結果、いったい何を得たかというに、あの『騎士《ナイト》よ』という言葉だけだったってものさ」
自嘲的にならざるを得なかった。
「何をお笑いなさいます?」君江はちょっとばかり怪訝そうに訊いた。
「騎士《ナイト》よ、騎士《ナイト》よ、ハッハッハッ、こんな言葉を覚えましたので」
「綺麗な言葉でございますこと」
「その癖中身はからっぽ[#「からっぽ」に傍点]で」
「どういう意味なのでございましょう?」
「恋人の前へ跪坐《ひざまず》き、恋人のお手々を頂戴し、そのあげくお手々をふんだくられ[#「ふんだくられ」に傍点]、ひどい目に会わされるさむらい[#「さむらい」に傍点]の、毛唐語だそうでございますよ。云ってみればちょうど拙者のようなもので」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな騎士《ナイト》!」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな拙者!」
「でも、妾なら裏切りません」
「また拙者にしてからが、あなたの前では跪坐《ひざまず》きません」
「好きでございます、そういうお方こそ。……女を認めないで虐めるお方! 本当の男でございます」
二人の旅はつづいて行く。
ふと小一郎は気になった。
「ご両親はご承知でございましょうな? あなたが拙者と住むことを?」
「妾、勘定に入れませんでした」
「ああ」と思わず小一郎は、嘆息の声を筒抜かせた。それから口の中で呟いた。「何も彼も一切反対だ、あの桔梗様とこの君江とは」
二月《きさらぎ》である。野は寒い。枯草がサラサラと戦《そよ》いでいる。山々が固黒く縮こまっている。花などどこにも咲いていない。旅人の姿も見あたらない。ひっそり閑とただ寂しい。
シャン、シャン、シャン……カバ、カバ、カバ、この音ばかりが響き渡る。二人ながら今は黙ってしまった。江戸へ江戸へと歩いて行く。が、このまま江戸入りをしたら、奇もなければ変もない、平凡な旅だと云わなければなるまい。ところが一つの事件が起こった。と云うのは林へ差しかかった時、枯葉でもあろうヒラヒラと、一葉の葉が舞って来た。全く無意識というやつである、ヒョイと小一郎は右手を出し、パッとばかりに掌で受けた。
と、落ちて来たその木の葉であるが、掌の上に静もったが……
見れば!
蝶だ!
季節違いの!
「ううむ」と小一郎は翅を見た。「斑紋がある! あの斑紋!」それからホーッと吐息をした。
「ああこれこそ永生の蝶!」
さてこの蝶を得たばかりに、江戸入りをした小一郎はさまざまの危難に遭遇し、その剣侠の剣侠たる所以《ゆえん》を、縦横に発揮することになった。
二十一
春がやって来て春が去り、江戸の町々は初夏となった。
ここは深川上の橋附近の、中洲の渡《わた》しに程近い地点で、そこにささやかな町道場があった。道場の主人は一式小一郎で、君江と二人で住んでいる。一人甚吉という下男がいる。内弟子もない質素な住居――と云いたいがそうでもない、いろいろの人間が集まって来た。浪人、遊び人、小旗本の次男、仲のよい田安家の友人達、安御家人《やすごけにん》やごろん[#「ごろん」に傍点]棒、剣術好きの町家の番頭、それから勇みの鳶の者。
鐘巻《かねまき》流剣道指南。
門に看板が上がっている。
時々竹刀の音もするが、それより無駄話や高笑いの方が、一層繁く聞こえて来た。
剣道指南所というよりも、倶楽部と云った方がよさそうである。
「父親から仕送りが来るんだよ、束脩《そくしゅう》や月謝なんか宛《あて》にするものか」
これが小一郎の心持ちであった。
父清左衛門云って曰く、「どうせお前は次男の身分だ。養子に行くか別家するか、どうかしなければならないのだが、どっちもお前には適しないらしい。戦国の世にでも産まれたら、小城の主ぐらいにはなれたかもしれない。ちょっと当世には向かない性《たち》だ。遊侠の徒になるもよかろう。町道場をひらくもいい。好きな娘とくらすもいい。そうしてそうやってくらしていることが、やがては君侯田安家のおために、ならないこともなかろうからな。いろいろの人間と交わって、沢山同志をつくるもよかろう。台所の方は引き受けたよ。まさかお前に食い潰されもしまい」
こういう背後楯《うしろだて》があるのである。小一郎たるもの喜ばざるを得ない。
とはいえ一式小一郎は、そういう父の寛大に付け込み、暢気《のんき》に遊んでいるような、そんなナマクラな人物ではなかった。
「手に入れた永生の蝶の秘密を、是非とも解いて見たいものだ」――こいつに腐心をしているのであった。
さてその永生の蝶であるが、まことに不思議なものであった。たしかにそいつは生きていた。呼吸もしていれば脈搏っている。しかし翅から肢体から、普通の蝶とはまるで異う。普通の蝶のように軟らかくない。鋼鉄で造られているのである。――いや鋼鉄で造られていると、そう云わなければ云いようのないほど、特殊の堅い物質で、精巧に造られているのである。
それは実際こういうことが出来る。
――生命を持った人工の蝶と!
火にくべても焼けそうもなく、水へ入れても溺れそうになく、懐中《ふところ》へ入れて抱きしめても、潰れもしなければ死にもしない。
水も飲めば砂糖も食べる、そうして部屋の中を舞い遊ぶ、指を差し出せば指へも止まる、そうかと思うと幾日も幾日も、一つ所に静まっている。
普通の蝶のように驚き易く、その上もなく敏感かと思うと、無生物のように鈍感でもある。
「奇怪な存在」と云わざるを得ない。
「だがいったいこの蝶は、雄蝶の方だろうか雌蝶の方だろうか?」これが小一郎には疑問であった。「もしこいつが雄蝶だとすれば、昆虫館から盗まれたものだし、もしもこいつが雌蝶だとすれば、昆虫館主が逃がしたものだ」しかし遺憾ながら小一郎には、雌雄の見分けが付かなかった。「昆虫館主の話によれば、翅に置いてある斑紋が、非常に大切だということだが、どうしてこんな斑紋が、そんなにまでも大切なんだろう?」――小一郎の手に入れた蝶の翅にも、地図のような斑紋が置いてあった。
「盗まれたという雄蝶の翅に、置いてあったという斑紋を、俺は昆虫館館主の部屋で、昆虫館主によって見せられたが、その斑紋と非常に似ている。ではこの蝶は雄蝶だろうか
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