場所は薄暗い。その薄暗い一所に、馬が静かに立っている。青草を食べているのである。君江の愛馬の鹿毛である。三浦三崎の実家から、小一郎を乗せて江戸へ出て、そのまま小一郎の屋敷の裏で、飼われていたところの馬である。
君江は立ち上がって近寄ったが、優しく鼻面を手で撫でた。「鹿毛よ」と云ったが情のある声だ、「私達にとっては一大事、それをお前にお願いします。さあさあ谷底へ駈けて行っておくれ。そうして谷底を駈け廻わっておくれ。ドンドン遠くまで走って行っておくれ。疲労《つか》れた頃に帰るがいい。いつまでも待っているからね。さあおいでよ!」
と云いながら、君江は馬の平首を打った。
君江の言葉を聞き分けたからか、ないしは打たれて驚いたからか、馬は一声|嘶《いなな》いたが、谷底を目掛けて馳せ下った。
予想は中《あた》ったというべきであろう。
馬の姿は解らない。蹄の音ばかりは聞こえて来る。
「うむ、これなら大丈夫だ」
「うまくゆくことでございましょう」
二人が微笑して眼を見合わせた時、谷の上から声がした。
「蹄の音だ! 聞こえる聞こえる!」
「ソレそっちへ追いかけろ!」
つづいて木を分け草を分け
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