家、その家号を角屋と云って、立派な構えの旅籠屋である。その門口からフラリと出たのは、他ならぬ一式小一郎で、口先に微笑を漂わせている。
「君江という娘、嘘は云わなかった。まさしく家は旅籠屋で、両親もピンピン健康《たっしゃ》でいる。そうして俺には親切だ。親切といえばあの君江、ほんとに俺を愛しているらしい。ちと困ったが迷惑でもない。明るくて快活でわだかまりがない。たしかに野に咲いた一輪の名花さ。そうは云ってもこの俺には、他に愛する女がある。姿形はまだ見ないが、小梅田圃の切り合いの最中、声だけ聞いたあの女だ。是非是非探しあてて逢って見たいものだ。……それはそれとしてその君江、大池のあるという森林の中へ、何故この俺を行かせないのだろう?」
 立ち止まって四辺《あたり》を見廻わした。冬ざれた半農半漁の村が、一筋寂しく横仆《よこた》わっている。それを越すと耕地である。耕地の向こうが大森林で、檜や杉の喬木が、澄み切った空を摩している。
 ヒョイと何気なく振り返って見た。「はてな?」と云ったのはどうしたのだろう? 十五、六人の侍が、いずれも立派な旅姿で、スタスタとこっちへ来るからであった。
「こんなに辺
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