? しかしその時昆虫館主は、もう一匹の雌蝶の翅にも、そっくりの斑紋があると云った。ではこの蝶は雌蝶かも知れない。……俺は実際惜しいことをしたよ、あの時見せられた雄蝶の斑紋を、もっと詳しく見て置けばよかった。不幸にも俺は瞥見しただけだ。で、ハッキリとは覚えていない。で、この蝶の斑紋が、雄蝶の斑紋だとは云い切れない。そうして一方雌蝶の方は、俺は全然見ていない。だが」と小一郎は考えた。「雄蝶であろうと雌蝶であろうと、そんな事は結局どうでもいい。是非ともこの際必要なのは、もう一匹蝶を目付けることだ」
 ところがこの蝶を手に入れて以来、そうして道場を持って以来、次々に左のような奇怪なことが、小一郎の身の上に起こって来た。
(一)絶えず何者か小一郎の家を、深夜になると立ち廻わる事。
(二)一回夜の往来で、何者か小一郎を襲った事。
(三)一回小一郎の不在中に、何者か小一郎の家を襲い、乱暴狼藉を極めた事。
(四)そのつど不思議な美人が現われ、小一郎を危難から救った事。
(五)敵の中にも美人がいて、それが指図をしていた事。

        二十二

 第一の場合はこうであった。
 夜更け人帰り寝静まった頃、家の周囲を忍びやかに、幾人かの者が歩き廻わり、囁き合ったり合図し合ったり、どうやら家の中へ忍び込もうとする、そういう気勢を示すのであった。ある夜の如きは厳重な雨戸が、自然にス――と開いたかと思うと、長い白布がヒラヒラと、生あるもののように入り込んで来て、パッと消滅したりした。突然窓があくこともあった。そうしてそこから袋のような物が、ヒョイと「顔」を覗かせたりした。そうかと思うと若い女の声で「経」を読むのが聞こえたりした。もっともその「経」は意味の解らない、呪文のようなものであったけれど……
 第二の場合はこうであった。
 ある夜一式小一郎は、お茶の水の辺を歩いていた。と突然七、八人の武士が、お誂え通りの黒装束で、木蔭からムラムラと現われたかと思うと、刀を抜き連れて切ってかかった。何者? と訊いたが答えがない。止むを得ず小一郎も刀を抜き、峯打ちに二、三人叩き倒した。と、若々しい女の声で「妾にお任せよ」というのが聞こえ、それと同時に長い白布が、ヒラヒラと小一郎の方へ延びて来た。と思った瞬間に、小一郎はポッと気が遠くなり、グッタリ地上へ倒れてしまった。それからどうやら武士達は、小一郎の体を調べたらしい。そんなように小一郎には感じられた。「持っていないよ。残念だね」こう云う女の声もした。それから幾刻経ったろうか、誰かが介抱するようであった。で、ポッカリ眼を覚ますと、やはり黒装束で身を固めた、五、六人の武士が並んでいたがそれは敵ではなさそうであった。
「我ら介抱いたしてござる。ひどい目に会われたな、ご用心なされ」
 こう云いすてると立ち去ってしまった。たしかにその中に一人の女が、立ち雑《まじ》っているように思われた。
 第三の場合はこうである。――
 ある夜友人の一人から、一杯飲もうという使いが来たので、指定された茶屋へ行ってみた。ところが友人はやって来ない。酒を命じ女をよび、夜の更けるまで待ってみたが、さらに友人はやって来ない。「ははあ」と感付いた小一郎は、いそいで家へ帰って見ると、家内は乱暴狼藉を極め、君江がその眼を真ん丸にし、こんな事を云って説明した。「黒装束のお侍さん達が、ドタドタ家の中へはいって来て、『どこにあるどこにある』と云いながら、何かを探したのでございます。するとその時戸外の方から女の声が聞こえました。呼びかけたのでございます。すると黒装束の武士の中からも、一人の女の声がして、どうやらそれに答えたようでした。そうしてすぐに周章《あわ》てたように、みんな立ち去ってしまいました」
「ははあ」と小一郎は自分へ云った。「永生の蝶を探しているのだ。この前お茶の水で襲われた時、おおかたそうだろうと思ったのだ。今夜は懐中《ふところ》へ入れて行ったので、幸い取られはしなかったが、いささか物騒になった。……二つの出来事を推し計ると、蝶を盗もうとする者と、保護をしようとする者と、二組あるように思われる。いったいどういう連中だろう? そうしてこの俺が永生の蝶を、所持しているということを、どうして知っているのだろう? ……どっちみちこうも襲われては、俺といえどもやり切れないよ。さてどうしたものだろう?」
 一式小一郎も参ってしまった。
「面倒臭いから放してしまうか」こんなようにさえ思うようになった。
 だがその後しばらくの間は、これという変ったこともなく、まずは平穏無事であった。しかし小一郎は油断せず、外出をする時には、永生の蝶を懐中に入れ、またある時は家へ残して出た。
 相変らず色々の人間が、小一郎の道場へ出入りした。全身綺麗に刺青《いれずみ》をした遊び
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