、卓上の図案を指さしたが、
「これでござるよ、一式氏、行衛を失なった雄蝶というのは」声がにわかに威厳を持って来た。
 そこで一式小一郎は、じっと図案を眺めやった。翅《はね》に付いている斑紋が、とりわけ小一郎には奇妙に見えた。普通の蝶の斑紋ではない。それは地図のような斑紋である。どんな人間でも一眼見たら、オヤと思わざるを得ないほど、変わった斑紋と云ってよい。
「奇妙な斑紋でございますな」
「さよう」と主人は頷いたが、「もう一匹の蝶の翅《はね》にも、これに似た斑紋がありましてな、どうやら私の考えによれば、どこかの地図かと思われますよ」
 でまた部屋の中がしずかになった。やっぱり歌声が聞こえて来る。窓から花の香が馨って来る。早春などとは思われない。汗ばむほどに暖かい。どうでも酣《たけなわ》の春のようだ。
「それに致しても」と小一郎は不審《いぶか》しそうに訊き出した。
「どうして先生にはそんな蝶を、お手に入れられたのでございますかな?」
「さあ」と云ったが昆虫館主人は、ここで沈黙をしてしまった。と、気軽に云い出した。「和蘭陀の首府ブラッセル、そこで偶然手に入れましたよ」それからこだわらず[#「こだわらず」に傍点]に云いつづけた。
「私はこれでも名門でな、門地から云えば徳川の連枝、もっとも三代将軍の頃、故あって家は潰されましたが、血統だけは今に続き、まず私が直系の後胤、青年の頃から欧羅巴《ヨーロッパ》へ渡り、そこで一通り昆虫学を学び、帰朝したのは最近のことで。……がマアそれはどうでもよい、ところで問題の雌雄の蝶だが、これは決して外国産ではなく、作られたのは間違いなく日本、それから朝鮮、支那を経て、和蘭陀の国へ渡ったようです。証拠もいろいろありますが、それは専門に属していることで、お話ししても解りますまい。……これは可笑《おか》しい!」
 と昆虫館主人は、にわかに長椅子から突っ立ち上がった。
「敏感な麝香《じゃこう》虫が騒ぎ出した」スルスルと窓まで走ったが、「困ったことだ! 何か起こる! 俺には解る、大事件が起こる!」

 ちょうどこの頃のことである。片手の小男が馬に乗り、関宿《せきやど》とは反対の方角から、大森林を上へ上へと、昆虫館を目差して走っていた。非常に周章《あわ》てているらしい。非常に恐怖しているらしい。
「さあ大変だ大変だ、早く先生へお告げしなければならない。攻めて来る攻めて来る彼奴《きゃつ》らが!」
 こんなことを口の中で呟いている。馬術は精妙、木立をくぐり、険路を突破して走って来る。
 やがて間もなくこの伝騎は昆虫館へ馳せ付けるだろう、そうしたら何かが語られるだろう。美しい平和な昆虫館に、そのため騒動が起こらなければよいが。
 伝騎が着いた。小男が叫んだ。――
「ご用心なさりませ、山尼《やまあま》の徒が、続々入り込んで参りました!」

        十九

「昆虫館閉鎖は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 山尼というのは何んだろう? いわゆる山姥《やまうば》の別名なのだろうか? それはハッキリ解らない。とにかく山間に住んでいる、一種の神秘的の人間らしい。どうしてそういう山尼の徒が、昆虫館を閉ざしたのだろう? それもハッキリ解らない。ただし昆虫館を閉ざしたのは、むしろ館主自身なのであった。
「山尼の徒が攻めて来た!」――伝騎が昆虫館へ知らせて来ると共に、次のような事件が起こったのである。
(一)「とうとう俺の心配していた、恐ろしい敵が攻めて来た。戦えばこっちの負けである。彼らはこの俺から永生の蝶を、手放させようとしているのだ。これはどうでも放さなければならない」こう云いながら昆虫館館主が、一匹残っていた雌蝶の方を、空高く放してやった事。
(二)「昆虫館は閉鎖する。館民は自由に立ち去るがいい」こう云いながら昆虫館館主が、建物の内へ引き籠ったので、多くの集まっていた片輪者達が、館を見すてて立ち去った事。
(三)ただし助手の吉次だけが、一人頑固に居残った事。
(四)桔梗様も父の館主と共に、昆虫館の内へ籠ってしまった事。
(五)そこで一式小一郎は、一旦関宿へ引っ返し、水難を遁がれた英五郎や君江と、再び顔を合わせた事。
 美しくて平和で神秘的であった昆虫館という別社会は、こうして実に一朝にして、寂寞の天地に化したのであった。

 さてその日から十日ほど経ったあるよく晴れた快い日に、一人の武士が馬に乗り、一人の女馬子が手綱を引き、三浦半島の野の路を、江戸の方へ向かって辿っていた。
 武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であった。
「もうお帰りなさいまし」こう云ったのは小一郎である。
 君江は笑って聞こうともしない。「いいえお送り致します」
 そこで小一郎は揶揄《からか》うように、「かえって迷惑でございま
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