を手に入れたところで、全く役に立たないばかりか、それを手に入れた人間は、かえって禍《わざわ》いを蒙るのだからなあ。それで恐らく吃驚《びっく》りして、逃がしてしまうに相違ないよ。逃がせば蝶は帰って来よう。ああそうだよ、この山へな。で、そいつを待つことにしよう。よしんば永久に帰らないにしても、後に残っている雌蝶をさえ、握っていれば大丈夫だよ。神秘の秘密は解けるものではない。とはいえもちろん心掛けて、絶えず捜索はするんだなあ。私の云いたいのはこうなのさ。なくなった雄蝶ばかりに心を取られ、雌蝶の方を疎かにしては、かえってよくないとこういうのさ。桔梗、お前はどう思うな?」頤髯を撫したものである。
「これはごもっともに存じます」桔梗様の声は嬉しそうである。
「ようご決心が付きました。ほんとうにさようでございますとも。いずれは帰るでございましょう。待ちましょうねえお父様。……そうしてどうぞお父様には、以前《まえ》通りご機嫌のよいお父様となり、ご研究にお尽くしくださいまし」
「ああいいとも、そういうことにしよう。不機嫌になったって仕方がない。なかなか浮世というものは、思うようにはならないんだからなア。で、私はこれまで通り、愉快な明るい人間となり、セッセと仕事をやろうと思うよ。吉次、お前はどう思うな?」
 すると吉次も安心したように、「まことに結構に存じます。先生に憂鬱になられましては、全く私どもがどうしてよいか、途方に暮れてしまいますので」
「アッハハハ、そうだろうて、主人の私が怒っていたでは、誰も彼も仕事がやりにくかろうて。よしよしこれからは快活にやろう。いつも明るく笑ってな」そこでもう一度笑ったが、取って付けたような笑い方であった。「さあさあ吉次、働け働け、行ってみんな[#「みんな」に傍点]を指図するがよい。ええと今日は温室の整埋だ。ええとそれから孵卵器の取り付け、ええとそれから蜂の巣の製造、忙《せわ》しいぞ忙しいぞ随分忙しい……はてな?」
 と云うとどうしたものか、昆虫館主人は耳|傾《かし》げた。何かを聞こうとするらしい。森林を渡る風の音、岩から滴る泉の音、何んにも聞こえない、それ以外には……だが、どうやら昆虫館主人には、別の物音が聞こえるらしい。見る見る顔が険しくなり、気むずかしそうに眼が顰《ひそ》んだ。「どいつか来るな、邪魔をしに!」
「うるさいことでございますね」こう云ったのは桔梗様で、おんなじように眼を顰めた。
「どっちの方角からでございます?」こう訊いたのは吉次である。
「麓の方からだ、関宿の方から」
「いつもの手段で追っ払いましょう」吉次は、松葉杖をポンと上げた。
「うむ、吉次、追っ払ってくれ!」
「ご免」
 と云うと走り出した。非常に敏捷な走り方である。二本足を持った人間より、ずっとずっと敏捷である。
「桔梗、部屋へ行って茶でも飲もう。……どうもうるさい[#「うるさい」に傍点]よ世間の連中、時々住居を騒がせに来おる!」
「ほんとにうるそう[#「うるそう」に傍点]ございますねえ」
「じっくり研究さえさせてくれない。全く俗流という奴は、鼻持ちのならない厭な奴だ。好奇心ばかり強くてな。そうしてそいつの満足のためには、他人の迷惑など何んとも思わない」
「参りましょうよ、お部屋へね」
 で、二人とも岩を巡り、奥の方へ姿を消してしまった。
 トコトコトコトコと泉の音が、微妙な音楽を奏している。小鳥の啼音《なくね》が聞こえて来る。冬陽が明るく射している。静かで清らかで平和である。
 だがこの平和を乱すべく、大乱闘の行われたのは、それから間もなくのことであった。

        九

 木精《こだま》の森を踏み分け踏み分け、一式小一郎は歩いている。
「一ツ橋家の武士達より、どうともして先に昆虫館を、目付《めつ》け出さなければ意地が立たない。だがどうにも歩きにくいなあ」
 喬木がすくすくと聳えている。枝葉が空を蔽うている。昼だというのに陽が射さない。四方《あたり》が宵のように薄暗い、灌木や蔓草が茂っている。それが歩く足を攫《さら》おうとする。巨大な仆《たお》れ木が横仆《よこた》わり、それがやっぱり足を止める。丘のような大岩が転がっている。所々に古池がある。突然飛び出したものがある。純白の兎の群である。サラサラと枝を渡るものがある。幾匹かの野生の猿である。カーッ、カーッと啼くものがある。鳥のようでもあれば獣のようでもある。季節は一月、所は大森林、凍りつくばかりに冷々《ひやひや》する。ヒューッ、ヒューッと風の音がする。梢を渡っているのだろう。だが樹が密生しているためか、森の中には吹き込んで来ない。地面は凍てついてるらしい。その上を腐葉が蔽うている。で、ズボズボと足がはいる。
 一式小一郎は傾斜面を、ズンズン上へ上がって行く。気が忙《せ》くので
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