云って都会の娘とも違う。勝れた血統を伝えたところの、高貴な姫君が何かの理由で、山に流されて住んでいる――と云いたいような娘である。永遠の処女! こう云ったらよかろう。物云いが明るくて率直で、こだわらないところが一層いい。
 これに反して吉次の方は、かなり醜くて毒々しい。低い鼻、厚い唇、その上片脚というのである。しかし不思議にも智的に見える。学殖は相当深いらしい。筒袖を着て伊賀袴を穿き、松葉杖をついている。年は二十七、八でもあろう。
 桔梗様は昆虫館主人の娘、吉次は館主の助手なのである。
「吉次や、そうだよ、お父様はね、あの雄蝶をなくして以来、ずっと不機嫌におなりなすったのだよ」桔梗様の声は憂わしそうである。
「私は不思議でなりませんなあ」吉次は松葉杖を突き代えたが、「だってそうじゃアございませんか、尋常な蝶ではございませんのに、どこかへ消えてなくなったなんて。……」
「でも本当だから仕方がないよ。現在蝶はいないんだからね」
「どうやら先生のお言葉によると、盗まれたように思われますが、さあはたしてそうでしょうか?」
「そうねえ、それはこの妾《わたし》にも、どうもはっきり解らないよ」
「ねえお嬢様、ようございますか、あの永生の蝶と来ては、盗めるものではございませんよ。こうも厳重に私達が、お守りをしているのですからね。それにお山は要害堅固、忍び込むことなんか出来ません」
「ところがそうばかりも云えないようだよ」いよいよ桔梗様は不安らしく、「この頃お父様問わず語りに『恐ろしい敵が現われた』と、こんなことを二、三度おっしゃったからね」
「へえ、そんな事を? 初耳ですなあ。で、いったいどんな敵なので?」
「今のところでは解らないよ。……それはそうと妾としては……」こう云うと桔梗様はどうしたものか、じーッと吉次の顔を見たが、「ああそうだよ妾としては、そんなお父様のおっしゃるような、恐ろしい敵がなかろうと、盗もうと思えば永生の蝶、誰にだって盗むことが出来ると思うよ」
「へえ、さようでございましょうか?」吉次は不安そうに訊き返した。
「お前にも盗めるし妾にも盗める」これは暗示的の言葉であった。
「何をおっしゃいます、お嬢様!」吉次は一足引いたものである。
「仲間うち[#「うち」に傍点]の者なら盗めるよ」
「ああそれではお嬢様は、仲聞のうちに裏切り者があって、そいつが盗んだとおっしゃるので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
 ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
 と、大岩の背後《うしろ》から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
 岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏《まと》っているのは胴服《どうふく》であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀《オランダ》風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。戴いている帽子も和蘭陀風で、清教徒でも用いそうな、鍔広で先が捲くれ上がっている。

        八

 帽子を洩れた白髪の、何んと美しいことだろう。肩に屯《たむろ》して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学《せきがく》に相違ない。きわめて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘型《ギリシャがた》である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った顎も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長《みたけ》高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴《ヨーロッパ》に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤《おもかげ》がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振る舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、見付からないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹
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