た桔梗様である。
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 まるっきり意識などなさそうである。無我夢中でいるらしい。何か口の中で呟いている。
「どうしたのだろう? 解らない! ……切り合っているよ! 恐ろしい! ……妾はどうしたらいいのだろう? ……逃げなければならない! 逃げなければならない! ……」
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 どこへ行こうとするのだろう? 自分にも解っていないらしい。どこへ行くのが至当なのだろう? 自分にも解っていないらしい。
 館の方へ歩いて行く。裏門の方へ歩いて行く。
 これこそ正気でない証拠である。
 恐ろしい恐ろしい館ではないか! 彼女を捕えて苦しめた、敵の住んでいる館ではないか! それだのにそっちへ行こうとする。
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 どうして誰もが止めないのだろう? 弁天松代はどうしているのか? やっぱり戦っているものと見える。
 桔梗様はフラフラと歩いて行く。
 とうとう裏門から入り込んだ。
 ザ――ッ、ザ――ッと音がする。
 滝の落ちている音である。
 そっちへ桔梗様は歩いて行く。
「綺麗な滝! 落ちているねえ」
 佇《たたず》んで桔梗様は眺めやった。
 石造りの建物がある。その一所に窓がある。そこから滝が落ちている。一式小一郎を葬って、垢離部屋を一杯に充たした水が、窓から落ちているのである。
「落ちているねえ。……綺麗な滝が!」
 ――とその時声がした。
「桔梗様! 桔梗様!」
 滝の中からしたのである。
「どなたか妾を呼んでいるよ」
 ――その時滝の水を分け、ヨロヨロと現われた人影があった。全身水に濡れている。おお水死人の幽霊だ!
「あああなたは?」
「小一郎でござる!」
「一式様か!」
「桔梗様!」
 抱き合ったとたんに鬨の声が、館外にあたって響いたが、つづいて叫び声が聞こえて来た。
「山尼《やまあま》だ! 山尼だ! 山尼だ!」
 と、裏門からムラムラと、一ツ橋勢が逃げ込んで来た。
「や、汝《おのれ》は!」とその中の一人が、一式小一郎へ切りかかった。
「まだ生きていたか! どうして遁がれた!」
 危くヒョロヒョロと小一郎は、身を反《か》わせたが苦しい声で、
「ナ、南部か! 集五郎!」
 桔梗様はフラフラと歩き出した。
「小一郎様! 小一郎様! お逃げなさりませ、お逃げなさりませ」
 フラフラフラフラと裏門を出た。
「桔梗様!」
 と小一郎は、足もと定まらず追おうとする。
 そこを背後《うしろ》から集五郎は、肩を目掛けてただ一刀!

 それから一月の日が経った。女馬子の引く馬に乗り、一人の武士が旅をしていた。

        四十六

 秩父連山の中腹であり、武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であったが、その同じ日に三浦三崎の方へ、八人連れの旅人が、事ありそうに歩いていた。
 隅田のご前を前後に守り、七福神組の連中が、目立たぬ旅の装いをして、密《ひそ》かに歩いて行くのであった。
 だがもし仔細に見たならば、大工や行商人や、修験者や、農夫や虚無僧や浪人者や、そういう者に身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》した、二百人あまりの同勢が、無関心な様子はとりながらも、隅田のご前を警護して、先になったり後になったり、歩いて行くのに気が付くであろう。
 すなわち英雄の俤《おもかげ》のある、隅田のご前が部下を引き連れ、三浦三崎の方角へ、密行しているものと見なければならない。
 隅田のご前は例によって、悠々寛々たる態度をもって、弁天松代を相手とし、剽軽《ひょうきん》な口を利いている。
「いやはやいやはや偉いことになったぞ、こんな俺のようないい年をした者が、草鞋穿《わらじば》きでテクテク三浦三崎などへ、出て行かなければならないのだからなあ。……そうは云ってもよい景色だの。一方は海岸一方は野原、秋草も綺麗に咲いているわい」
 葵の紋服など着ていない。無紋の単衣《ひとえ》にぶっさき[#「ぶっさき」に傍点]羽織、自然木の杖をついている。顔を見られるのを嫌ったからだろう、編笠を目深に冠っている。
「そうは云ってもひょっと[#「ひょっと」に傍点]かすると、今度は大騒動になるかもしれない。私は騒動は嫌いでな。わけてもちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]な日本国内で、いがみ[#「いがみ」に傍点]合うことなどは大嫌いだよ。……と云ってもどうも今度ばかりは、うっちゃって置くことは出来そうもないよ……。何しろこの私の兄にあたる、昆虫館主がやられる[#「やられる」に傍点]のだからなあ……。そうは云っても一方から云えば、私にはこの旅が面白いのさ。久しぶりで兄弟と逢えるのだからなあ。……お前達にとっても楽しかろうよ、変わった建物が見られるのだからな。昆虫館という建物さ。……がその代
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