イに見える。大人物らしい隅田のご前にも、裏を見られないものでもない。それにさ、幸福というものは、そう続け様に求めても、そう続け様に来るものではない。うかうか図に乗って逢いに行って、変な顔でもされた日には、とても助からないことになる。それにさ、幸福というものは、その幸福を抱きしめて、一人で味わうことによって、二倍の幸福を感ずるものだ。今日は行くのは止めにしよう。それより静かな所へ行き、楽しそうなことを考えよう」
そこで小一郎は横へ反《そ》れた。
来た所が品川の海岸で、この頃はすっかり日が暮れて、月が真《ま》ん円《まる》く空へかかった。もうほとんど人通りがない。宛《あて》なしにブラブラ歩いて行く。海では波も静からしい。青葉の匂いが馨《かんば》しい。
「幸福だな、幸福だ」
呟きながら彷徨《さまよ》って行く。
だがはたして小一郎の幸福は、幸福のままで済んだろうか? 鮫洲《さめす》の宿までかかった時――一挺の駕籠が江戸の方から、飛ぶように走ってやって来て、小一郎の傍を駈け抜けて、そうして夜の東海道を物怪《もののけ》のように走り去った時――そうしてその駕籠から何物か、地上へポンと落とされた時――そうしてそれを小一郎が、不思議に思って拾い上げた時、彼の幸福は覆えされてしまった。
拾い上げたのは簪《かんざし》であった。脚に紙片が巻き付けてある。それに文字が書かれてある。恐らく小指でも食い切ったのだろう。そうしてその血で書いたのだろう、生々しく赤くこう書かれてあった。
「悪者に誘拐されております。どなたかお助けくださいまし[#「くださいまし」は底本では「くだいまし」]」そうして「桔梗」と記してあった。
「ム――」と呻いた小一郎は、ブルッとばかりに顫えたが、「駕籠待てエーッ」と思わず大音に呼んだ。しかしその駕籠はついに馳せ去り、もちろん姿は見えなかった。気勢で呼んだまでである。
「これはこうしてはいられない!」
大小の鍔際を抱えるように、グッと握って胸へあてたが、片手で裾を端折ると、さながら疾風が渦巻くように、月夜に延びている街道を、走り下ったものである。
二十八
だがそれにしても桔梗様は、誰に誘拐《かどわか》されたのだろう? どこへ運ばれて行ったのだろう? 隅田のご前というような、あんな立派な人物によって、城廓めいた宏大な屋敷に、秘蔵されていた桔梗様
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