う桔梗様が云ったこと。「その節父が申されました『一式氏は人物である。あのお方とお前との交際を、私は好んでお前へ許す、ついてはあの方を探し出し、この鍵を是非とも手渡しておくれ。雌雄二匹の永生の蝶を、一式氏が手に入れて、もしそれが子供を産んだ際には、この鍵が役に立つかも知れない』――で、お渡し致します」こう桔梗様が云ったこと。等、等、等を思い出した。「一式氏とやら、お暇があったら、時々お遊びにおいでなされ。があらかじめ申し上げて置く、拙者の屋敷の構造や、拙者の行動に関しては、絶対に世間へ洩らされぬように。うち見たところ貴殿には、一個任侠の大丈夫らしい。その中拙者の計画や、心持ちなどもお話し致す。時々遊びに参られるよう。それにどうやら姪の桔梗が、そなたを愛しておられるようで、遊びにおいでなさるがよい」――隅田のご前という人が、云ったことなども思い出した。
「時々どころか毎日でも行って、桔梗様と話をしたいものだ」小一郎は恋しくてならなかった。
「今日も、これから行ってやろう」
 フラリと立つと大小を差した。だが何んとなく気が咎める。「気の毒だな、君江には」そこでこっそり[#「こっそり」に傍点]足音を盗み、玄関へかかると雪駄を穿き、「まるで間男でもするようだな」苦笑しながらも門を潜り、うまく君江にも目付からずに、夕陽の明るい町へ出た。
 差しかかった所が大川端で、隅田の屋敷の方へ、急ぎ足に歩き出した。夕暮れ時の美しさ、大川の水が光っている。そこを荷舟が辷っている。対岸の白壁が燃えている。夕陽を受けているからである。鴎が群れて飛んでいる。舞い上がっては舞い下りる。翼が夕陽を刎ね返している。甍を越して煙りが見える。どうやら昼火事でもあるらしい。人々の罵る声がする。「火事だ火事だ! 景気がいいな!」間もなく煙りが消えてしまった。小火《ぼや》で済んだに相違ない。渡し船には人が一杯である。橋にも通る人が一杯である。物売りの声々が充ちている。江戸の夕暮れは活気がある。
「ひどく俺は幸福だよ」小一郎はこんなことを呟いた。「桔梗様にも愛されているし、君江どん[#「どん」に傍点]にも愛されている。色男の果報者というやつさ。……だが待てよ」と考え込んだ。「いかに何んでもこいつ[#「こいつ」に傍点]はいけない。桔梗様とは昨夜逢ったばかりだ。それだのにノコノコ今日行っては、あんまり俺がオッチョコチョ
前へ 次へ
全115ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング