た不快の声だ。
 と又一人飛び込んで来た。
 全く同じ手、ガンと一つ! 岡八、相手の眉間を撲った。
「むっ」といううめき! これも同じだ、ぶっ倒れる音! これも同じだ。「二匹どうやら片づけた[#「片づけた」は底本では「片ずけた」]らしい」岡八心で呟いた。「幾匹でも来い、退治てやる」
 そこでソロリと位置を変えた。
 しばらくの間は静かである。
 ボソボソと話す声がした。
「何か相談をしているな、一体幾匹いるんだろう?」
 じいいッと闇をすかして見た。まだ三、四人はいるらしい。
 矢張り感覚、こいつでわかる、その三四人が左右から、どうやら一度にかかるらしい。背後は大藪逃げることは出来ない。いかな岡八でも一人に三、四人、これでは勝目はなさそうであった。
「困ったな、仕方がねえ、勿体ねえが名乗ってやろう」
 そこで叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》したものである。
「やい、手前達、途法もねえ馬鹿だ! 俺を誰だと思っている! 皆川町の岡八だぞ!」
 果然[#「果然」は底本では「果燃」]こいつは効果があった。
「えッ」という声が先ず聞え「しまった!」という声がすぐ聞えた。
「お逃げよ!」と続いて女の声がした。
 と、バタバタと足音がして、後はシーンだ、静かなものだ。
「よし」というと岡引の岡八、ピタリと地面へ腹這いになった。「根岸の方へ逃げやがった。ふふん」というとヒョイと立った。「いよいよこれで見当がついた」
 ジメジメと肌が汗ばんでいる。カッカッと頭が燃えている。胸の動悸も相当高い。
「闇討ちだったから驚いたのさ。……闇討をするものは岡引だと、昔から相場が決まっているのに、今夜はそいつが逆だったからなあ。……さあて、これからどうしたものだ? まん[#「まん」に傍点]が悪いからひっ返すかな? そうして死絵を調べるとするか? ……だがどうもこれじゃァひっ込みがつかねえ。構うものか。行く所まで行こう」
 根岸の方へ下ったが、忽ち大難にひっかかってしまった。

     七

 今日の上根岸、百十八番にあたるあたり、その頃は空地で家などはなかった。
 ところが一軒だけ屋敷があった。
 黒板塀、忍び返し、昔はさぞかしと思われるような寮構えだが大きな屋敷だ。無住で手入れが届かないと見え、随分あちこち破損している、植込などは荒れている。屋敷の周囲には雑草が生え冬だから狐色に枯れている。うっかり歩くと足にからむ。三尺ももっとも[#「もっとも」に傍点]丈延びている。
 これが名高いお縫様屋敷だ。
 そこへやって来た男がある。他ならぬ岡引の岡八だ。
 星空の下に佇んで、見上げ見下ろしたものである。
 それから忍びやかに動き廻った。
 岡引の探偵法、今も昔も大差ない。塀へ横ッ面をおっ付けたのは、家内の様子を窺ったのである。地面を克明に探がしたのは、人が歩いたか歩かなかったか、そいつを調べたに相違ない。三度ばかり屋敷をグルグルと廻わった。忍び込む口を目付けたのだろう。
 屋敷へ背を向けてヒョイとかがんだ。はてな? 何をする気だろう? 一ツポツリ赤いものが見えた。何ん点だ、つまらない、たばこの火だ。
「界隈の奴等は馬鹿揃いだなあ。何んのこいつが無住なものか、人間二十人も住んでいらあ」岡八呟いたものである。「全く御時世は、なげかわしいよ。こんな大変な悪党どもが、こんなにも一所に集まって、大それたことをしているのに、盲目同様気がつかないんだからなあ」二服目のたばこをふかし出した。「そうはいっても俺だって、トンチキでないとはいわれないよ。今日まで気づかずにいたのだからなあ」
「さてこれからどうしたものだ」たばこを喫い切ると考え込んだ。「用心堅固に構えているなら、かえって安々忍び込めるのだが、彼奴等まるで不用心だ。すっかり世間を甞め切っていやがる。それだけにちょっと物凄いよ」
 ポンともう一度煙管を抜き出し、またたばこをすい出した。
「一人で十二人はあげられ[#「あげられ」に傍点]ねえなあ」岡八またも考え込んだ、「帰って若いのをつれて来るかな?」煙管が地面へ落ちたのさえ、気づかない程に考え込んだ。「とはいえ一応中味も見ずに、食らいつくことも出来ないからなあ。……矢っ張り[#「矢っ張り」は底本では「失っ張り」]思い切って忍び込んでやれ。……だが俺は先刻名乗ったんだからなあ。彼奴等用心をしているかもしれねえ。……とそこまで取越苦労をしたら仕事なんか出来ねえということになる。……というものの薄ッ気味が悪い! 普通の悪党じゃァないんだからなあ。……などといっていると夜が明ける。……かまうものか、忍び込んでやれ!」
 塀にピッタリ体をつけさっと捕縄を忍び返しにかけて[#「かけて」は底本では「かけた」]スルスルスルスルとよじ上った。と、もう姿が見えなくなった。岡八、屋敷へ忍び込んだのである。

 その翌日のことである。
「兄貴家かえ」とやって来たのは、他ならぬ岡引の半九郎であった。
「昨日出たきり帰らないよ」
 こういったのは岡八の女房、鳥渡仇めいた女である。
「兄貴としちゃァ珍しいね」
「私も心配しているのさ」
「で、矢っぱりご用でかい?」
「半九郎の奴に鼻あかせてやる、こういいながら出て行ったよ」
 すると半九郎笑い出してしまった。
「アッハハハこいつァ面白え。少し兄貴も若|耄碌《もうろく》をしたな」
「なぜさ?」とお吉《よし》――岡八の女房――怒ったようにきき返した。
「ナーニこっちの話でさ。……あそれじゃあ姐御、また来やしょう」
 往来へ飛出したが吹出してしまった。
「あの物語りの謎解きをしようと、探ぐりに出たとはどうかしているよ。岡八の兄貴もヤキが廻ったなあ。そんな年でもない癖に」
 その翌日のことである、またも半九郎尋ねて来た。
「姐御、兄貴はお家かね?」
「それがさ、半さん、どうしたんだろう、いまだに帰って来ないんだよ」
 お吉の顔に憂色がある。
「へえ」といったが半九郎も、眉の間へ皺を寄せた。
「おかしいなあ、何んてえことだ」
「こんなことめった[#「めった」に傍点]にないんだがねえ」
 お吉いよいよ心配そうである。
「そうだ実際お上のご用で、遠ッ走りをする時の外は、決して泊って来ねえのが、岡八兄貴のいい所でしたね。……ふうむ、こいつァ変梃だぞ[#「変梃だぞ」は底本では「変挺だぞ」]」腕をこまぬいたものである。

     八

 これから半九郎の活動になる。
 道をあるきながら考え込んでしまった。
「俺がああいう話をした。それで兄貴が飛び出した。そうして二晩も帰って来ない。といって真面目なあの兄貴、岡場所にひっかかる筈もない。遠ッ走りをしたのなら、あの仲のいいお吉姐御にあらかじめ話して行く筈だ。ふうん、ふうん、解らねえなあ」
 どうにも見当がつかなかった。
「何んだか[#「「何んだか」は底本では「何んだか」]俺には厭な気がするよ。変事でもありゃァしないかな? 兄貴のことだ、大丈夫だろうが名人の手からだって水は洩れる。――どだい俺等の話を聞いて、飛出して行ったというやつが、その名人の水洩れだからなあ。ふうん、ふうんわからねえなあ」
 矢張りどうにも見当がつかない。
「ええと筋立てて考えてみよう。……兎に角俺等の物語りの、謎解きをしようと出かけたというからこいつはこのまま信じるとして、真っ先にどこへ行くだろう? ……さあ真っ先にどこへゆくだろう?」
 当然なことが思いついた。
「お縫様屋敷へ行くというものさ」
 どうしたものか吹き出してしまった。
「行ったって何があるものか。大きな空家があるばかりさ」
 で、こいつは投げ出すことにした。
「さてこの外にはどこへ行くな?」
 雲を掴むようでわからない。
「こまったな、本当にこまった。……だが……」
 というと考え込んだ。
「だが矢っぱり筋道をたぐろう。お縫様屋敷へ行ってみよう。何か手がかりが目つかるかもしれねえ」
 半九郎スタスタあるき出した。
 上野を廻ると上根岸、お縫様屋敷の前まで来た。
 冬陽が黒塀にあたっている。あれにあれた屋敷である。屋根棟に烏《からす》がとまっている。生物といえばそれだけである。カラッと四方吹きさらしである。一軒の家も附近にはない。
「矢っ張り空家さ。何があるものか」
 呟いたが半九郎念のためだ、グルリと屋敷を巡り出した。
「おっ」
 と俄に立ちどまったのは[#「立ちどまったのは」は底本では「立ちとまったのは」]、雑草の中に見覚えのある、岡八の銀口の太煙管が一本ころがっていたからであった。
 拾い上げたがじっと見た。
「別に変わったこともねえ。ただこいつで解ることは、矢っ張り兄貴がお縫様屋敷へ、さぐりに来たということだけさ。いや待てよ!」
 とギョッとした。
「あッ、いけねえ、こんな筈ァねえ!」音に出して叫んだものである。「あのおちついた岡八兄貴、たとえどんなにあわてようと、煙管を落として行く筈はねえ。……にもかかわらず落ちている……ということであってみれば、大事件があったと見なければならねえ。……うん、ここにほごがある。……うん枯草が敷かれている。……休んで一服したんだな? ……さあてそれから、さあてそれから?」
 半九郎あたりを見廻した。
 眼についたは塀の足跡! いや雪駄の跡である。ヒョイと眼を上げると忍び返しが、二三本外側へ曲っている。
「ははあ兄貴、忍び込んだな」
 眼をつむって考えた。
「お縫様屋敷へやって来た。やって来たからには念のため、内を一応は調べるだろう。まあまあこれは尋常だ。が、煙管が落ちている。たしかに休んだ跡がある。……とすると煙管の落ちたのさえ、感づかない程に熱心に、休んで考えたということになる。その揚句屋敷へ忍んだとすれば、充分何かを見究めた結果、忍び込んだということになる。……こいつァ只の空家じゃァねえぞ!」
 半九郎ゾッと寒くなった。
「待て待て、待て待て、あわてちゃァいけねえ。這入りは這入ったが出て来たかも知れねえ」
 そこで屋敷をもう一度巡った。出たか出ないかは解らなかったが、少なくも「出た」という証拠はなかった。
 表門、裏門、くぐり[#「くぐり」に傍点]の戸、そいつを押しても見たけれど、内から閂《かんぬき》でも下ろされているのか、貧乏ゆるぎさえしなかった。
「さてこれから何うしたものだ?」
 這入ってみようかとも考えた。
「とんでもねえ」
 と直止めた。
「あの岡八の兄貴さえ、呑み込まれた恐しい屋敷じゃァねえか。いかに昼でも俺等一人で、踏ん込んで行くなァ度胸がよすぎる」
「帰って人数を連て来よう」
 急いで引っ返した半九郎、夜になるのを待ち受けて、十数人の乾児《こぶん》を連れ、お縫様屋敷へ忍び込んだ。
 何を彼等は見ただろう。

     九

 命を助けられた岡引の岡八、家へ帰って正気づくと、
「もう一度あそこへ行って見てえものだ」
 真ッ先にこういったものである。
 それから又もトロトロと眠った。
 すっかり元気が恢復すると、またノッケにいったものである。
「支那の古事にあるっていうが、ありゃァ日本の纐纈《こうきつ》城だなあ」
 で、それから話し出した。
「半九、お前にゃァ何んといっていいか、半分はお礼、半分は怨みだ。……俺等お前の話を聞くと、ピシッと心に響いたことがあった。染吉の朱盆の真紅の色と、染吉の衰死という奴さ! ……こいつァ紅毛人の話だが、或る画家がいい色を出すため、自分の体から血を取って、絵具がわりに使ったというが、ははあそれでは染吉という男も、朱盆にそいつを使ったかもしれねえ。朱盆がマア、それはそれとして、俺の手掛ている難事件、いい若い者が姿をかくし、帰って来ると衰死してしまう、こいつに宛てはめたらどうだろうとな? どこかに悪い奴が屯していて、人間の生血を、絞るんじゃァないかな? ……で俺は出かけたってものさ。染吉の朱盆を手に入れてみよう、そうしてそいつを蘭医にでも頼んで、血が雑っているか雑っていないか、真ッ先に調べて貰うことにしよう。朱盆さて古道具屋へ行ってみたが、思うように手に入らねえ。数
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