染吉の朱盆
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)切り仆《たお》した

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)尊皇|攘夷《じょうい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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     一

 ぴかり!
 剣光!
 ワッという悲鳴!
 少し[#「 少し」は底本では「  少し」]間を置いてパチンと鍔音。空には満月、地には霜。
 切り仆《たお》したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切仕立、懐中《ふところ》手をして反身になり、人なんかァ殺しゃァしませんよ……といったように悠然と下駄の歯音を、カラーンカラン! 立てて向うへ歩いて行く。
 切り仆されたのは手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。手に包を握っている。
 側に屋敷が立っている。立派な屋敷で一軒きりだ。黒板塀、忍び返し、奥に植込が茂っている。周囲は空地、町の灯に遠い。
 その塀に添って、カランカラーン、武士はおちついて歩いて行く。
 塀について左へ曲がった。
 矢張り悠然、矢張り歯音、カラーンカラン! カラーンカラン!
 また塀について曲がった途端、
「御用!」
 捕手《とりて》だ!
 上がったは十手!
 武士、ちっとも驚かなかった。
 佇むとポンと胸を打った。
「へ――」
 と捕方平伏した。
「半刻あまりそこにいろ」
 いいすてて、またもカラーンカラン! 綺麗に歯音を霜夜に立て、そうして肩に満月を載せ、町の方へ行ってしまったのである。
 切り仆された手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。
 と、右手から人の足音、雪駄穿きだな、バタバタと聞える。現れたのは職人風の男、死にぞこないにつまずいた。
「おっ!」というとつくばった[#「つくばった」に傍点]。
「しめた!」というと飛び上がった。途端に右手が宙へ躍った。
 と、どうしたんだ、あわてたように「しまった!」と叫ぶと引っ返してしまった。どこへ行ったか解らない。
「あッ、取られた、大事な朱盆!」
 切られた手代風の男の声! そうしてそれなり、死んでしまった。

 数日経った或日のこと、
「ご免下さい」と訪う声。
 人殺しのあった側の屋敷、その玄関から聞えて来た。扮装だけはシャンとしているが、顔に無数の痘痕のある可成り醜い男が立っている。
「はい」と現れたのは小間使い「何かご用でございますか?」
「突然で不躾ではございますが、もしやお屋敷の庭の隅に、朱盆が落ちてはおりませんでした?」
「しばらくお待ちを」と這入って行った。
 引き違いに現れたのは一人の令嬢、「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた」という形容詞が、そっくり当て篏まるような美人であった。
「おたずねの品物、これでございましょう」
 差し出したのは一面の朱盆。
「へい、さようで」
 と醜い男じっと朱盆を眺めやった。
 何んて微妙な深紅の色だ! 金短冊が蒔絵してある。そうして文字が書かれてある。
「こひすてふ」という五文字である。百人一首のその一つの、即ち上の五文字である。
 男、ヒョイと令嬢を見た。と、チラチラと眼の中へ、狂わしい情熱の火が燃えた。
「ご免下さい」と行ってしまった。
 ところがそれから数日経ち、同じようなことが行われた。
 同じ場所で、手代風の男が、スポリと一刀に切られたのである。切り仆したのは同じ武士、矢張り悠然と立ち去ってしまった。かけつけて来たのは職人風の男、
「しめた!」というと躍り上がった。途端に右手が宙へ上った。そうしてそのまま逃げ去ってしまった。
 切られた男の断末魔の声「あッ取られた、大事な朱盆……」
 それも全く同じであった。
 違った所も少しはある。
 当然その夜は満月ではなかった。小雪がチラチラ降っていた。で、道がぬかるんでいた。
 そこでもちろんカラーンカランと、下駄の歯音は響かなかった。
 もっと重大な相違点がある。
(一)捕手がその夜は現れなかったこと。
(二)「しまった!」と職人が叫ばなかったこと。
 だが、それから数日経ち、例の屋敷の玄関へ、例の醜男が現れて、朱盆の有無をたしかめたのは、以前と全く同じであり、その応待も同じであった。
 次ぎの一ヶ条だけは違っているが――。
(一)金短冊に書かれてあった文字が「我名はまだき」とあったことである。

     二

 これが四回も続いたのである。
 で、その結果はどうなったか? 手代風の男が四人殺され、朱塗の盆が四枚がところ、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた令嬢の手に這入り、短冊の文字を集めると、
「恋すてふ、我名はまだき、立ちにけり、人しれずこそ」
 となったのである。
 令嬢の名は縫様、以来お縫様憂鬱になった。
 四枚の朱盆を前へ並べ、こんな独言をいうようになった。
「ああもう一枚ほしいものだ。そうするとすっかり揃うのに。――恋すてふ我名はまだき立ちにけり人知れずこそ……足りないわねえ。『思ひそめしが』ともう一句、それを記した盆がほしい。それにしても、どうして私の屋敷へ、こんなにも立派な四枚の盆を、誰が何のために投げ込んだのだろう? ――そうしてあの男は何者だろう? 盆の有無しを確めに来ては、持っても行かずに行ってしまう。不思議な眼つきで私を見る」
 もう一枚の盆に対する、執着の念が深くなった。
 そこで、とうとう蒔絵師を呼んだ。
「こんな朱盆ははじめてみます。この朱色は無類です。どんな顔料を使いましたやら。塗も蒔も同じ手です。これも素晴らしゅうございます。私など真似も出来ません。だが作り手は知れています。日本に蒔絵師は沢山あっても、これ程の物を作る者は、染吉のほかにはございません。……ああ染吉でございますか? 谷中の奥に住んでおります。大変な変人でございましてね、自分で作った品物を、人手に渡すのを惜がるのです。で、仲々手に入りません。どんな大金を積んだところで、気に向かないと作りませんので、珍重されておりますよ。だが染吉の作にしても、これは飛切り上等の方で、一代の傑作と申されましょう。……ええと年はまだ若く、二十八の独身者で、それに醜男《ぶおとこ》でございますので女嫌いで通っております。いかに仕事は名人でも、変人の上に醜男ときては、ご婦人方には好かれませんからなあ。それこそあなた、顔と来たら、疱瘡の痕でメチャメチャで」
 これが蒔絵師の挨拶であった。
「ああそれではあの男だ」お縫様は直に感付いた。
「朱盆の有無しを確めに来たあの男が染吉だ」
 そこでお縫様いったものである。
「どんなお望みにでも応じます。『思ひそめしが』と六文字を入れた、[#「、」は底本では「。」]この盆と対の朱塗の盆を、ぜひともおつくり下さいますよう、その名人の染吉さんに、あなたからお頼みして下さいまし」
 翌日蒔絵師はやって来たが、返辞は意外なものであった。
「こう染吉は申しました。『そのお嬢様のお頼みがなくとも、私の方からお作りし、そのお嬢様へ差上げようと、この日頃苦心しているのですが、とても望みは遂げられますまい。まあ見て下さい。この体を! すっかり痩せて衰えて、骨と皮ばかりになりました。実は私はその盆と一しょに、心を捧げようと思っていたので。ああそうです、お嬢様へ……思いそめしが! 思いそめしが!』……お嬢様どうやら染吉は死んでしまいそうでございますよ」
 果して名工染吉は、その後間もなく死んでしまい、お縫様も間もなくなくなって[#「なくなって」は底本では「なくって」]しまった。なくなる間際までお縫様は、最後の盆をほしがった。で、口癖のようにいったそうである。
「思いそめしが、思いそめしが」

「ね、兄貴、話といえば、ざっとこういったものなのさ」
 話し終えた岡引《おかっぴき》の半九郎は、変に皮肉に笑ったものである。
「成る程[#「成る程」は底本では「成る程。」]」といったのは岡八である。
「大して面白い話でもないな」
「どうしてだい、面白いじゃァないか」
「古いありきたり[#「ありきたり」に傍点]の因果物語りさ」
「そうばかりもいわれないよ、遺跡《あと》がのこっているのだからな」
「おおお縫様の屋敷跡か」
「そっくりそのまま残っているのさ」
「住人がないとかいったっけね」
「草茫々たる化物屋敷さ」
「根岸附近だとかいったっけね」
「そうだよ」と半九郎うなずいた。それからまたも変に皮肉に、盗むような笑いを浮かべたが、
「どうだい兄貴、謎が解けるかね?」
 それには返辞をしなかったが、
「十年前の話なんだな?」
「安政二年の物語りさ」

     三

 岡八というのは綽名《あだな》である。
「一つの事件をあばこうとしたら、渦中へ飛び込んじゃいけないよ。いつも傍から見るんだなあ。渦の中へ一緒に巻き込まれようなものなら、渦を見ることが出来ないからなあ。ほんとに岡目八目さ」
 これがこの男の口癖である。その本名は綱吉といい、非常に腕っこきの岡引であった。
 一つ二つ例を挙げてみよう。
 一人の女が訴え出た。
「夫が家出をして帰りません」と。
 数日たって女の隣人が、井戸に死人があると訴え出た。
 その女も走って行った。井戸を覗くと叫んだものである。「私の夫でございます」
 そこで岡八が一喝した。
「人殺しは手前だ! ――ふん[#「ふん」に傍点]縛れ!」
 果してその婦《おんな》と情夫とが、共謀して良人を殺したのであった。
「岡目で見りゃァ直《すぐ》判《わか》りまさあ、古井戸の中は暗くてね、死人の形がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と、やっと見えるくらいのものだったんで、一目覗いて亭主だなんて、どうして判りっこがあるものですかい。殺して置いてぶち込んだんで」
 或家でかんざし[#「かんざし」に傍点]を盗まれた。戸外から入り込んだ形跡はない。二人の下女が疑わしかった。そこで岡八、青麦を二本、二人の下女へやったものである。
「正直者の麦はそのままだが、不正直者の麦は長くなる。明日の朝までに一寸が所な」
 翌日調べると一本の麦は自若、一人の下女の持っていた麦が、一寸がところ摘切られてあった。
「そいつが詰り盗人だったんで、下女なんてものは無知なもので、そんな甘手にさえひっかかりますよ。ほんとに延びると考えて、一寸がところ摘んだんでさあ」
 さてその岡八だが、最近に至って、一つの難事件にぶつかってしまった。
 いい若者が無暗とさらわれ、十数日たつと送り返されて来る。その時はすっかり衰弱している。どうしたと尋ねても真相をいわない。そうして、おまけに、いうのである。
「ああもう一度あそこ[#「あそこ」に傍点]へ行きたい」
 そうして間もなく死んでしまうのである。
 時世は慶応元年で、尊王|攘夷《じょうい》、佐幕開港、日本の国家は動乱の極、江戸市中などは物情騒然、辻切、押借[#「辻切、押借」は底本では「辻切押借」]、放火、強盗、等、々、々といったような、あらゆる罪悪は行われていたが、岡八のぶつかった難事件のようなそんな事件は珍しかった。
「さらわれた先をいわないというのが、何より変梃《へんてこ》で[#「変梃《へんてこ》で」は底本では「変挺《へんてこ》で」]見当がつかない」
 全く見当がつかなかった。
 で、この日頃ムシャクシャしていた。
 そんな気も知らずに半九郎奴、十年前の古事件、お縫様屋敷の物語りを、面白くもなく、しゃべり立て謎を解いて見ろというのである。
「で、何かい」と岡八はいった。「その古々しい因果物語りが、はやり出したというのかい?」
「ああそうだよ」と半九郎。「銭湯へ行っても髪結床へ行っても、専《もっぱ》らそいつが評判なのさ」
「で、何かい」と、また岡八「四人までも切った侍が、其まま解らずに消えたのが、面妖だっていうのかい?」
「それからどうして染吉が、燈心の火が消える
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