無勢とあって、両六波羅探題北條時益、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両武将が、もろくも正成《まさしげ》のために渡辺の橋で破られ、関東の武威《ぶい》を失墜《しっつい》するや「大軍すでに利を失いました後、小勢を以て向いますること、如何《いかが》あらんかとは存じまするが、関東を罷《まか》り出でまする際、このようなお大事に巡り合い、命を軽ういたすを以て、念願といたしおりましたる私、駆《か》け向いまするでござりましょう。今の場合を観じまするに、戦いの勝敗そのものを、云為《うんい》いたす時にてはござりませぬ。何はあれ一人にても駈け向い、落ちました関東の武威を揚げますこと、肝要《かんよう》のことかと存ぜられまする」と、こう言上《ごんじょう》して向って来た公綱であった。
決死の程が想像されよう。
さて、然うドッと鬨《とき》をあげた。
然るに答える者はなく、駈け出して来る兵もなく、楠氏《なんし》の陣営には、焚《た》きすてられた篝《かがり》が、余燼《よじん》を上げているばかりであった。
「正成一流のたばかり[#「たばかり」に傍点]でもあろうぞ。油断《ゆだん》して裏掻《うらか》かるるな」
と、公綱は馬上大音に叫び、更に天王寺の東西の口より、三度までも駈入り駈入ったが、敵の姿は一人も見られなかった。
夜がまったく明け放れた。
事実|敵影《てきえい》はないのであった。
多少の疑惑はあったものの、戦わざるに勝った心地がして、公綱としては歓喜|類《たぐい》なく、正成の陣営のその後へ、自身|直《ただ》ちに陣を敷き、やがて京都へ早馬《はやうま》を立て勝利の旨を南六波羅へ申しやった。
しかるに五六日経った頃から、奇怪なことが夜々に起った。
天王寺を遠く囲繞《いにょう》して、秋篠《あきしの》の郷や外山《とやま》の里や、生駒の嶽や志城津《しぎつ》の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、篝《かがり》や松明がおびただしく焚かれ、今にも数千数万の軍勢が、寄せ来るかとばかり見えることであった。
「一旦陣は引いたが正成め、新手の大軍を猟《か》り催し、押し寄せ来る手段と見える。誠《まこと》の戦《たたかい》一度もせず、残念に思っていたところ、押し寄せ来るこそ却って幸い、迎え撃《う》って雌雄《しゆう》を決しようぞ。……やア汝等《おのれら》寸刻といえども、油断をするな、用意怠るな!」
こう部下に命を伝え、自己も鎧の上帯を解《と》かず、部下にも帯を解かしめず、馬の鞍《くら》をも休めようとはせず、まして夜な夜なを眠らず眠らせず、敵の押し寄せ来るを待ちかまえた。
然るにその後も依然として、遠篝《とおかがり》は山々谷々に、また浦々に燃えつづいたが、寄せて来ようとはしなかった。
大将公綱を初めとし、紀清両党の郎党たちも、追々|惰気《だき》を催して来、しかも思い切って心を許し、眠に入ることが出来なかったので、身心次第に疲労《つか》れ衰弱《おとろ》えて、戦意|頓《とみ》に失われ、退陣したいものと思うようになった。
四
天王寺の陣を引いた正成は、数里はなれた櫨子原《しどみばら》に、幔幕《まんまく》ばかりの陣を張り、悠々と機をうかがっていた。
或夜|正遠《まさとお》と定仏《じょうぶつ》とをつれ、陣々をひそかに見回りながら小高い丘の頂まで来た。
はるかの彼方に天王寺があって、その辺に敷いてある公綱《きんつな》の陣から、立ちのぼる篝の火が空に映じ、ほの明るさを見せていたが、いつもの夜よりも火光は弱く、衰えの様が感じられた。
「正遠」
と、正成は愉快そうに云った。
「明日は天王寺へ帰ることが出来るぞ」
「は?」
と、正遠はいぶかしそうに、
「では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので?」
「いや公綱とは戦いはせぬよ。これは以前から決めていることじゃ」
「では如何して天王寺へ、明日お帰りあそばしますか?」
「公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじゃ」
「ははあ、公綱退陣しましょうか?」
「あの篝火の衰え様では、明日退陣と見てよかろう」
「…………」
「一戦も交えず正成をして、退かせましてござりますと、これを功にして京に帰らば、公綱の面目は立つからのう」
「これは御意《ぎょい》にござります」
「公綱としてはわしを追い討ち、この陣を破りたく思ってはいようが、それにしては兵が少なすぎる。といって天王寺にとどまっているには、夜な夜な燃える数千の篝が、どうにも気になっておちついて居られぬ。で、結局、帰って行くのじゃ」
「さよう予《あらかじ》めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので?」
「そうだ」と正成は頷いた。「で、わしは百姓や漁夫や、樵夫《やまがつ》などに命を含め、山々谷々浦々に、あのように篝を焚かせたのじゃよ。……定仏定仏」と湯浅定仏を呼んだ。
「わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃよ」
「は」
と云ったが、湯浅定仏は、何んとない苦笑を頬に浮かべた。
「まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする」
「わしが火をかけて脱け出した城を、其方よく修理してくれたのう」
「…………」
定仏は黙ってまた苦笑した。
それに相違ないからであった。
正成が赤坂城を捨てて出た後へ、六波羅の命で入城し、城を修理して籠もったのは、たしかに湯浅定仏だったのであった。
が、その定仏は正成に攻められ、他愛なく城は乗っ取られ、本人はこのように降将として、正成に仕えているのであった。
苦笑せざるを得ないではないか。
「過去を探り現在を識り、未来を察して世を渡らば、人間間違いはないものじゃ」こう正成は訓《おし》えるように云った。
「武人にとっては合戦こそは、立派な世渡りの術だからのう。未来を察してかからねばならぬよ。……明日天王寺へ帰ったなら、何を置いてもお寺へ参り、未来記を拝見するつもりじゃ」
この夜も山々谷々に、そうして津々浦々一円に、正成の焚かせている篝火が、妖しく凄く燃えていた。
五
正成の予言は的中し、翌朝公綱は陣を撤し、京都をさして帰って行き、代《かわ》って正成が天王寺へ這入った。
元弘二年八月三日、この日はよく晴れた秋日和《あきびより》で、松林では鳩が啼き、天王寺の塔の甍《いらか》には、陽が銀箔のようにあたっていた。
白鞍《しろくら》置いた馬、白覆輪《しろふくりん》の太刀、それに鎧一領を副《そ》え、徒者数人に曳き持たせ、正成は天王寺へ参詣し、大般若経《だいはんにゃきょう》転読《てんどく》の布施として献じ、髯の白い老いた長老に会い、正成不肖の身をもって、一大事思い立ちたる事由を審《つぶ》さに述べたるのち、虔《つつ》ましく居ずまいを正し、「承わりますれば、上宮太子|厩戸皇子《うまやどのおうじ》様、百王治天の安危を勘《かんが》え、日本一州の未来記を認《したた》め、この寺院に秘蔵あそばさるるとか。もし拝見苦しからずば、現代に関わる箇所だけなりとも、是非とも拝見仕りたく、如何のものにござりましょうや?」
すると長老は深く頷いて、
「万代の秘書にはござりまするが、多門兵衛様には忠誠丹心《ちゅうせいたんしん》、まことの武夫《もののふ》と存じますれば、別儀をもちまして、お眼にかけるでござりましょう」
と云い、一旦奥へはいったが、やがて金軸《こんじく》の書一巻を、恭《うやうや》しく捧げて現われた。
正成は悦び譬《たと》うるものなく、謹みかしこんで両手に受け、徐《おもむろ》に開いて読んで行った。
不思議の一連が眼にうつった。
「人王《じんおう》九十五代ニ当ツテ、天下一|度《たび》乱レテ而テ主《しゅ》安《やす》カラズ。此時|東魚《とうぎょ》来《きたり》テ四海ヲ呑ム。日《ひ》西天ニ没スルコト三百七十余箇日。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。其後海内一ニ帰スルコト三年。※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》ノ如キ者天下ヲ掠《かす》ムルコト三十余年。大兇変ジテ一元ニ帰ス」
それはこういう文字であった。
正成は沈思《ちんし》した。
思いあたることが数々あった。
(後醍醐《ごだいご》の帝《みかど》こそは神武の帝より数えて、九十五代にあたらせ給う。天下一度乱レテ主安カラズ。これは現代《いまのよ》の事なのであろう。東魚来テ四海ヲ呑ム。これは北條の、一族の悪逆《あくぎゃく》を指しているのであろう。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。これは何者か関東を滅す。という予言に相違ない。日西天ニ没スとあるは、帝《みかど》隠岐島《おきのしま》へ御|遷幸《せんこう》ましまされた、この一事を指しておられるのであろう。三百七十余日とあるからには、明年のその頃に都へ御還幸、御位に復されるやも計られぬ。……しかしそれにしてもその次に書かれた、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》ノ如キモノ天下ヲ掠《かす》ムとは、一体どういう意味なのであろう?)
一抹の不安が正成の心に起った。
これは勿論|足利尊氏《あしかがたかうじ》によって、天下を奪われることを予言したところの、その一文であるのであったが、如何に聡明の正成にも、そこまでは思い及ばなかったのである。
(どうあろうと我に於て関わりはない)
すぐ正成は快然《かいぜん》とこう思った。
(帝の忠誠の臣として、帝の一個の衛士《えじ》として、尽くすべきことを尽くせばよい。ましてや太子のその後の予言に、大兇変ジテ一元ニ帰スと、こう記してあるではないか)
快然とした正成の謹厚の顔には、初秋の明るい陽の光が、障子越しにほのかに射していて、穏やかな陰影をつけていた。
間もなく正成は陣[#「陣」に傍点]へ帰った。
正成の予想に狂いがなく、その後宇都宮公綱は、宮方に帰順して忠節を励んだ。
底本:「時代小説を読む 城之巻」大陸書房
1991(平成3)年1月10日初版
底本の親本:「天保綺談」桜木書房
1945(昭和20)年
初出:「日の出」
1935(昭和10)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2008年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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