まで辿り着いたのであった。其処には誰も居なかった。王の持っていたらしい王笏と、穿いていたらしい靴が一足、傷ましい悲劇を語り顔に、床の上に捨ててあるばかりで、王も王妃も居ないのである。
「弑虐か、それとも救い出されたか?」
要するに此二つであった。
併し恐らく弑せられたのであろう。九郎右衛門とコマ皇子とは茫然と顔を見合わせて、立ち縮まざるを得なかった。
しかし左様やって何時までも立ち縮んでいることは出来なかった。敵の領内であるからである。
二人は急いで塔を出た。
気付いて囲繞んだ叛軍の群を、例の精妙の「か音の一手」で、縦横無尽に切り払い、一散に城外へ走り出た。城外には予め備えて置いた、彼の五十人の部下が居たので忽ち一方の血路を開き、カンポット港まで潜行した。こうして船へ乗り込んで一先ず日本へ引き上げたのである。
寛文六年の初夏であったが、その赤格子九郎右衛門は、博多から江戸へ出かけて行った。
時に年八十六歳。頽然たる老人である可きであったが、名に負う海洋で鍛えた体は矍鑠《かくしゃく》として尚逞しく、上下の歯など大方揃っていた。加之此時は彼の資産なども、末次平蔵と伯仲の間にあって、居然たる九州の富豪であった。従って官民上下からも多大の尊敬を払われていたが、時の大老酒井忠清は取り分け彼を愛していた。
で、此時も邸へ招いて、彼の口から語り出される壮快極わまる冒険談を喜んで聞いたということであるが、其時座中には堀田正俊だの、阿部豊後守忠秋だの、又は河村瑞軒などという、一代の名賢奇才などが、臨席していたということである。
「其方程の剛の者には恐ろしいと思うた事などは、曾て一度もあるまいの?」ふと忠清は話のついでに斯う九郎右衛門[#「九郎右衛門」は底本では「九郎付衛門」]に訊いて見た。
すると、九郎右衛門は、大きな眼を、心持細く窄めたがそれは過ぎ去った遠い昔を、想い返えそうとする表情なのでもあろう。
「仲々もって左様な事……」
と、謙遜に彼は首を振ったが、
「取り分け香港に於きまして、〈黒仮面船〉の猛者どもに、おっ取り巻かれました其時は、此九郎右衛門心の底より恐ろしく思いましてござります」
「なに、香港の〈黒仮面船〉とな? それは一体何者じゃな?」
「不思義な海賊にござります」
「ほほう海賊? 支那の海賊かな?」
「ところが、支那人ではござりませぬ」
「どうやら話は面白そうじゃ。ひとつ詳細に話して貰いたいの」
「心得ましてござります」九郎右衛門は斯う云って、夫れから其話しを話し出した。
それは今から四十六年の昔、元和七年の初夏の事で、その時私は男盛りの四十歳でござりましたが、宗室丸の船頭として、南洋に向かって出帆致しました途次、予定の寄港地たる香港の港へ碇泊り致しましたのが事の発端で、其夜私は東六という若い楫《かじ》取を供に連れて港へ上陸いたしました。
ご承知の通り香港《ホンコン》は、支那大陸の九竜とは指呼の間にござりまして、小さい孤島ではござりますが、其湾内は東洋一、水深く浪平に、誠に良港でございますので、各国の船は必ず一度は、其処へ泊まるのでございます。
とは云え気候は極わめて熱く、悪疫四方に流行し、加之《しかも》土人は兇悪惨暴、その上陸地は山ばかりで、取り処の無い島とも云えましょう。併し、港の近傍には無数の人家軒を並べ、酒店、娼家、喫茶店など、到る所に立ち並び繁昌を極めて居りました。
で、私と東六とは、その中で特に外見の好い、酒店へ這入って行きました。
五
這入って見ますると、店の中は、諸国の水夫《かこ》や楫取で、一杯になって居りました。支那の言葉、呂宋の言葉、西班牙《イスパニア》の言葉、ポルトガルの言葉――色々様々の国々の言葉で、四辺は騒々しく活気に充ち、何か今にも面白い事件でも、起こって来そうに思われました。
私と東六は室の隅の丸い卓子《テーブル》を前にして、所の名物|柘榴《ざくろ》酒を飲みながら、四辺の様子を見て居りましたが、不意に其時、私達の横で、
「あ、来たぞ! 黒仮面が!」と、小声で叫んだのを聞きました。
それと同時に室の中が急に静かになりました。と、見ると、遙か室の向うの、戸外へ向いた戸口から、其形恰も蝙蝠のような畸形な真黒の人影が、室の中へひらひらと這入って参りました。
「成程、噂に聞いた通りの不思議な様子をして居る哩」と、私は胸で呟いたものです。
漆黒の服で全身を包み、同じ色の覆面をし、翼のような黒母衣を背負った、国籍不明の水夫《かこ》達に依って、繰られている大型の船が、南海や支那海を横行し、海上を通る総船を、理由《いわれ》無しに引き止めて、その船内へ踊り込み、人間の数を調べたり掠奪を為るということは、以前から聞いて居りましたので、其時、室へ這入って来た、蝙蝠のよ
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