月光に照らされた少年の端麗優美の容貌が、先ず九郎右衛門の心を曳いた。その次に彼を驚かせたのは、少年の着ている衣裳であった。その衣裳には柬埔寨《かんぼじや》国の王室の紋章が散らしてある。
 曾て、九郎右衛門は柬埔寨へも、一二度往復したことがあって、可成り国語にも通じていた。
 で彼は少年へ話しかけた。
 その結果彼の知ったことは、その少年こそ柬埔寨国の皇太子であるということや、其柬埔寨国に恐ろしい革命が起こったということや、その結果王と王妃とが憐れにも牢獄へ投ぜられ、皇太子のカンボ・コマだけが、謀叛人の一味に捉えられ、此澎湖島の岩の間へ捨て去られたということや――要するに彼と交渉のある柬埔寨の国家の兇変を、皇太子の口から知ったのであった。
 義侠に富んだ九郎右衛門が、その皇子の話を聞いて如何に義憤の血を湧かせたか、如何に皇子に同情したか、それは書き記すにも及ぶまい。
「よろしゅうござる!」と、九郎右衛門は重々しい声で先ず云った。
「日本《ひのもと》の男子九郎右衛門が、計らず殿下にお眼にかかり、お国の大事を聞いたというも、何かのご縁でござりましょう。及ばずながらお力になり、王様、王妃様を救い出し、無事にご対面出来ますようお取計い致しましょう。手近の浜辺に某《それがし》の率る大船|碇泊《ふながか》りして居りますれば、まず夫れへご遷座なされますよう」
 斯うして九郎右衛門は皇子を背負い、自分の船まで帰って来た。そして船中|主立《おもだ》った者を、窃に五人だけ呼び寄せて、其夜の出来事を物語った。
 それから九郎右衛門は斯う云った。
「何より先に呂宋まで急いで船をやらずばなるまい。そこで積んで来た荷を卸し改めて柬埔寨へ渡るとしょうぞ」
「心得申した」と五人の者は、恭く一度に頭を下げた。彼等に執っては九郎右衛門は、無限の権力を持った君主なのである。
 その翌日からコマ皇子は、日本の衣裳を着せられて日本流に駒太郎と呼ばれるようになった。そうして船も其日から有るだけの帆を一杯に張って、南へ南へと下だり出した。麗かな日和がよく続いて、海上は何時も穏かである。程経て船は呂宋へ着いたが、呂宋には島井家の支店《でみせ》がある。そこで荷物を積み代えると船は海上を日本へ向けて、急いで取って返えしたのであった。併し此時、積荷と一緒に多量の煙硝や弾丸や、刀槍の類を窃《こっそ》りと、船内へ運搬された事は、支店の人さえ気が付かなかった。まして勿論その船が途中から航路を西南に執り、日本と正反対の方角へ、進んで行ったというような事は、考えて見ることさえしなかった。
 しかし御朱印船宗室丸は、コマ皇子の駒太郎や、頭領赤格子九郎右衛門や、五十余名の水夫《ふなのり》を載せて、船脚軽く堂々と柬埔寨国へ進んだのであった。
 そうして、それ以来、宗室丸は、暫く人々の耳目から其踪跡を晦ませたのであった。

     四

 斯うして一月は経過した。
 そして物語は舞台を変えた柬埔寨国へ移ったのである。
 暹羅の南、交趾支那の北、これぞ王国柬埔寨の位置で、メコン河の下流、トッテサップ湖の砂洲に、首都プノンペン市は出来ていた。町の東北に片寄って、巍然として聳える高楼こそ、アラカン王の宮殿であるが、今は叛将イルマ将軍に依って、占領されているのであった。
 それは月の無い深夜である。
 厳めしい宮殿の裏門には、槍を握った叛軍の衛兵が、五人列んで佇んでいたが、不意に一斉に声を上げた。
「誰じゃ?」と鋭く叫んだものである。すると、其声の終えない中に、闇の中から人影が、ヒラリと前へ飛び出して来たが「カーッ」と劇《はげ》しく一喝した。それと一緒に閃々と電光《いなずま》のようなものが閃めいた。と、手に槍を握ったまま、五人の兵は五人ながら、地にバタバタと切仆された。
「いざ、駒太郎殿、おいでなされい」
 すると音も無く闇の中から復人影が現れたが、九郎右衛門殿と囁いた。
 二人は其儘スルスルと宮殿の中へ這入って行った。
 赤格子九郎右衛門教之は、衛兵数人を切り仆し、カンボ・コマ皇子事駒太郎を連れて、柬埔寨国の王宮の中へ、門を排して突入った。
 その時の事を「緑林黒白」には次のような文章で書き記してある。
「門ヲ入レバ内庭ニシテ、四辺闃寂人影無シ、中央ニ大池アリ。奇巌怪石岸ニ聳チ、一切前景ヲ遮ルアリ、両人即チ池ヲ巡リ、更ニ森林ノ奥ニ迷フ。忽然茂ヨリ走リ出デ九郎右衛門ニ向カッテ跳躍スルモノアリ。一個獰猛ノ大豹ニシテ、白刄一閃大地ニ横仆ワル。林ヲ出デ、奥庭ニ入リ、廻廊ヲ巡リ巨塔ノ前ニ現ル。衛兵三人、槍ヲ擬シ誰何ス。二人ヲ斃シ、一人ヲ捉ヘ、威嚇シテ以テ東道トナス。巨塔ハ即チ牢舎ニシテ、地下数丈階段ヲ下レバ、岩モテ畳メル密室アリ、王及ビ王妃ヲ幽閉セル処……」云々と。
 斯うして皇子と九郎右衛門とは、地底の牢獄
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