た事は、支店の人さえ気が付かなかった。まして勿論その船が途中から航路を西南に執り、日本と正反対の方角へ、進んで行ったというような事は、考えて見ることさえしなかった。
しかし御朱印船宗室丸は、コマ皇子の駒太郎や、頭領赤格子九郎右衛門や、五十余名の水夫《ふなのり》を載せて、船脚軽く堂々と柬埔寨国へ進んだのであった。
そうして、それ以来、宗室丸は、暫く人々の耳目から其踪跡を晦ませたのであった。
四
斯うして一月は経過した。
そして物語は舞台を変えた柬埔寨国へ移ったのである。
暹羅の南、交趾支那の北、これぞ王国柬埔寨の位置で、メコン河の下流、トッテサップ湖の砂洲に、首都プノンペン市は出来ていた。町の東北に片寄って、巍然として聳える高楼こそ、アラカン王の宮殿であるが、今は叛将イルマ将軍に依って、占領されているのであった。
それは月の無い深夜である。
厳めしい宮殿の裏門には、槍を握った叛軍の衛兵が、五人列んで佇んでいたが、不意に一斉に声を上げた。
「誰じゃ?」と鋭く叫んだものである。すると、其声の終えない中に、闇の中から人影が、ヒラリと前へ飛び出して来たが「カーッ」と劇《はげ》しく一喝した。それと一緒に閃々と電光《いなずま》のようなものが閃めいた。と、手に槍を握ったまま、五人の兵は五人ながら、地にバタバタと切仆された。
「いざ、駒太郎殿、おいでなされい」
すると音も無く闇の中から復人影が現れたが、九郎右衛門殿と囁いた。
二人は其儘スルスルと宮殿の中へ這入って行った。
赤格子九郎右衛門教之は、衛兵数人を切り仆し、カンボ・コマ皇子事駒太郎を連れて、柬埔寨国の王宮の中へ、門を排して突入った。
その時の事を「緑林黒白」には次のような文章で書き記してある。
「門ヲ入レバ内庭ニシテ、四辺闃寂人影無シ、中央ニ大池アリ。奇巌怪石岸ニ聳チ、一切前景ヲ遮ルアリ、両人即チ池ヲ巡リ、更ニ森林ノ奥ニ迷フ。忽然茂ヨリ走リ出デ九郎右衛門ニ向カッテ跳躍スルモノアリ。一個獰猛ノ大豹ニシテ、白刄一閃大地ニ横仆ワル。林ヲ出デ、奥庭ニ入リ、廻廊ヲ巡リ巨塔ノ前ニ現ル。衛兵三人、槍ヲ擬シ誰何ス。二人ヲ斃シ、一人ヲ捉ヘ、威嚇シテ以テ東道トナス。巨塔ハ即チ牢舎ニシテ、地下数丈階段ヲ下レバ、岩モテ畳メル密室アリ、王及ビ王妃ヲ幽閉セル処……」云々と。
斯うして皇子と九郎右衛門とは、地底の牢獄
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