ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね」
「へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!」
わざ[#「わざ」に傍点]ととぼ[#「とぼ」に傍点]けて忠蔵は訊く。
「しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね」
「おやおや広い世間にとぼ[#「とぼ」に傍点]けた野郎があるものだね」
ポンと自分の額を叩き、
「夜鷹を買って財布を落とし、それを姐御に横取りされ……」
「エヘン」とこの時、丸窓の内から、咳の声が聞こえてきた。気が付いた忠蔵は苦笑をし。
「何さ、お前さんの前身が闇を世界の姐御などにはとても見えねえと云ったまでさ」
南無三宝! 絶体絶命!
「妾の前身でござんすか」
お袖はにわかに眼をしばたたき、
「卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ」
「そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ」
「妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした」
「何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?」
忠蔵は急に真顔になった。
「はい、山屋と云いましたよ」
「ぷッ」と驚いた忠蔵はつくづくとお袖の顔を見たが。
「それじゃもしや本名は……」
「はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します」
「ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?」
「どうして詳くそんな事まで……」
不思議そうにお袖は云いながらグイと袂を捲り上げた。むっちり[#「むっちり」に傍点]と白い二の腕のあたり鮮かに見える蟹の痣。
「あッ」と驚いた忠蔵がヨロヨロと蹣跚《よろめ》くその途端、丸窓の障子に音がして、ヒューッと白い物が飛んで来た。それがお袖の襟上に刺さる。白糸の付いた、木綿針だ! お袖を殺せとの命令である。丸窓の内から九郎右衛門の娘、お菊が投げたに相違ない。
仲間の掟は山より重い。頭領《かしら》の命令は義よりも堅い。たとえ妹であろうとも、白糸の合図があった以上、殺さなければならないのである。
「南無三宝! 絶体絶命!」
腹の中で泣きながら、呑んでいた匕首《あいくち》を抜いた途端、
「お袖、お袖!」と卜翁の声、母屋の縁に立って招いている。
「はい、ただ今」と云いながら、背中に白糸を付けたまま、バタバタと
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