のご主人様なので、――品物を取り返そう取り返そうとして、いやはやいやはやとてもしつこく[#「しつこく」に傍点]、追っかけて来ましてございます。で、私は一散に逃げて、やっとここまで参りました。ほッ、この汗! この汗はどうだ! 汗をかきましてござります。ほッ、この動悸! この動悸はどうだ! ひどい動悸が打っております。……」
碩寿翁を屋敷の主人と見あやまり、京助はあたふた[#「あたふた」に傍点]こう云いながら、包み物と書面とを前へ出した。
恐ろしい主人の勘右衛門に、執念深く追いかけられ、弁太や杉次郎に助けられ、ようやく逃げて根津まで来て、あっちこっちをほっつき[#「ほっつき」に傍点]廻り、ようやく目的の刑部屋敷の、露路の口まで来たのであった。その時風采堂々とした、松平碩寿翁に逢ったのである。顛倒している眼から見れば、刑部屋敷の主人公に、碩寿翁の見えたのは当然と云えよう。
で、京助は恭しく、包み物と書面とを支え持っていた。
(松倉屋の女房の高価な品物? 勘右衛門が取り返そうと追って来た品物? 刑部屋敷の主人へ渡して、返辞と何かを下さるだろうから、それをいただいて参れという品物。……松倉屋は昔は抜け荷買いだ、異国の珍器なども持っていよう。刑部屋敷の主人といえば、そういう品物を売買する奴だ……松倉屋の女房は贅沢三昧で、むやみと金を使うという。……うむ、解った! それに違いない!)
碩寿翁には咄嗟に真相が解った。
俄然碩寿翁の眼の光が、貴人などにはあるまじいほどに、毒々しく惨酷に輝いたが、
「さようか、よろしい、受け取りましょう。返辞もあげよう、物もあげよう。……さあさあこっちへ参るがよい。どれ」と、手を延ばして二品を取ったが、とたんに片手をグッと突き出した。
呻きの声の聞こえたのは、急所を突かれた手代の京助が、倒れながら呻いたからであろう。
左右は貧民の家々であって、露路を挟んで立ち並んでいる。月の光が遮られて、露路の中はほとんど闇であった。そういう露路を背後《うしろ》にして、露路口に立っている碩寿翁の姿は、その長い髯に、頑丈な肩に、秀れた上身長《うわぜい》に、老将軍らしい顔に、青白い月光を真っ向に浴びて、茶人とか好奇家《こうずか》とか大名の隠居とか、そういうおおらか[#「おおらか」に傍点]の人物とは見えずに、老吸血鬼か殺人狂のように見えた。その足もとに転がっているのは、犠牲にされた京助であって、両手を握って左右へ延ばし、食いしばった口から泡を吹き半眼で空を睨んでいる。
と、碩寿翁は腰を曲げたが、手を延ばすと京助の襟上をつかみ、露路へズルズルと引っ張り込んだ。
一つの露路は二つの露路を産み、二つの露路は四つの露路を産み、この一画は細い露路によって、蜘蛛手《くもで》のように織られていたが、それの一つへ投げ込まれたが最後、死人であろうと、怪我人であろうと、犬や猫のように扱われて、死人は下手人も探されず、そのままどこかへ片寄せられ、怪我人は介抱もされないのであった。
この一画は貧民窟ではあったが、また罪悪の巣でもあり、悪漢《わる》や無頼漢《ごろつき》の根城なのでもあった。
淫祠邪教の存在地なるものは、表面人助けが行なわれるが、裡面においては惨忍極まる、悪徳が横行するものである。
とりわけ細い露路の一つへ、死んでしまったのか、気絶をしているのか、されるままになっている京助の体を、ズルズルと引っ張って来た松平碩寿翁は、一軒の家の門口《かどぐち》の前へ、その京助の体を捨て、忍びやかに露路を出ようとした。
と、その家の窓の辺りから、急に華やかな燈火《ともしび》が射し、高貴な若々しい男の声が、屈託もなさそうに聞こえてきた。
「問題は非常に簡単なのだよ。小慾にあり知足《ちそく》にあるのさ。なるほど、今は生活《くらし》にくい浮世だ。戦い取ろう、搾《しぼ》り取ろうと、誰も彼も逆上してあせっている。だから私は云うのだよ、慾を少なくして、足るを知れと。つまり浮世と逆行するのだ。その逆行が徹底した時に、桃源郷が現じ出してくる。……誰も彼も桃源郷を求めていながら、誰も彼もが桃源郷を断っている」
するとその声に答えるようにして、あどけない娘の声がした。
「小父《おじ》様ほんとうでございますわね。……でも小父様はどういうお方ですの?」
「私《わし》かね」と男の笑声が云った。
「旅人なのだよ、この人の世の。……お伽噺の語り手なのだよ。伝道者と云ってもよいかも知れない」
「妾《わたし》ちっとも恐くないわ。知らないお方ではございますけど。……フラリと先刻《さっき》いらしった時から、ちっとも恐くはございませんでしたの」
「それはね、お前さんがよい娘《こ》だからよ。……悪人なら私を怖がるはずだ」
「でも小父様はお立派なのね。お顔もお姿もお召し物も。……そうして何て神々《こうごう》しいのでしょう。妾、ひざまずいて拝みたいのよ」
「お前さんの心が立派だからよ。……立派な心は立派な心を好くよ。私こそお前さんにひざまずくべきだよ」
「でも妾貧しいのでございますの。誰も彼も私を馬鹿にしますの」
「一人だけお前さんを認めているものがあるよ」
「まあ小父様、あなたのことですの」
「いやいや私がお仕えしている方だよ」
「どなたでございますの? ねえ小父様?」
「唯一なる神」
「唯一なる神?」
「お聞きお妙《たえ》さん、聞こえるだろうね」
「…………」
「小慾知足とは反対に、飽くことを知らない強慾者が、みすみす没落の穴の方へ、歩いて行く足音が聞こえましょう」
「小父様妾には聞こえませぬが」
「窓をお開け!」と男の声がした。
「姿を見ることが出来ましょう。その気の毒な強慾者の姿が」
露路の闇に佇んで、聞きすましていた碩寿翁は、一刹那体をひるがえすと、その家の板へへばり[#「へばり」に傍点]ついた。
と、すぐに窓があき、娘の顔が現われたが、家内《いえうち》から射し出る燈火《ともしび》の光を、背景としているがために、顔立ちなどはわからなかった。清らかな白い輪廓ばかりが、ぼんやり見えるばかりであった。
娘は露路の左右を見たが、
「小父様、何にも見えませぬ」
「さようか」と、家内で男の声が云った。
「では見ない方がよいだろう。……そうだ、なるたけ穢らわしいものは」
「ああ小父様、黒い物が見えます。おおおお死骸でございます。若い方の死骸でございます。露路の真ん中に倒れております」
「助けておいで」と、男の声がした。
「可哀そうな不幸な贄《にえ》なのだよ」
つづいて「はい」という声が聞こえて、窓から娘の顔が消えた。
と、戸をあける声がした。
松平碩寿翁は見付けられなければなるまい。
いやいや碩寿翁はこの時には、既に露地から走り出していた。すなわち窓から娘の顔が、引っ込むと同時に身を躍らせて、露路から外へ飛び出したのであった。
颯と一揮
(あのお方があんな[#「あんな」に傍点]所におられようとは。……俺はとうとう感付かれてしまった! ……俺に恐ろしいのはあのお方ばかりだ。……俺は邸へは帰られない。俺は体を隠さなければならない。……あのお方があんな所におられようとは。いやいやこれは当然かも知れない。……あのお方はああいうお方なのだから。……不正な所へも現われるし、正しい所へも現われる。貧しい所へも現われれば、富んだところへも現われる。そうして「状態」をひっくり返す)
露路口で立ち止まった碩寿翁は、こう考えて戦慄したが、そういう恐怖よりもさらに一層の、好奇心が胸へ湧き上った。で、手に持っていた包み物の、包みをグルグルと解きほぐし、現われた蒔絵《まきえ》の箱の蓋《ふた》を、月に向かってパッと取った。と一道の鯖《さば》色の光が、月の光を奪うばかりに、燦然としてほとばしり出たが、ほんの一瞬間に消えてしまった。碩寿翁が箱の蓋を冠《かぶ》せたからである。
「おおこの光に比べては、名誉も身分も、財産も生命《いのち》さえも劣って見える。……あれだ! たしかに! 探していたあれだ!」
感動が著しかったためなのであろう、碩寿翁はガタガタと顫え出した。
が、その次の瞬間に、碩寿翁を驚かせたものがあった。一本の腕が背後《うしろ》から延びて、蒔絵の箱を掴んだからである。
とたんに活然と音がして、白い物が月光に躍り上り、すぐに地に落ちてころがった。
抜き討ちに切りつけた碩寿翁の太刀に、御幣《ごへい》の柄が真ん中から二つに切られ、その先が躍り上って落ちたのであった。
露路口に立っている女があった。白の行衣《ぎょうえ》に高足駄をはき、胸に円鏡を光らせてかけ、手に御幣の切られたのを持って、それを頭上で左右に振って、鋭い声で喚いている。
勘解由《かげゆ》家の当主の千賀子であった。
「返せ返せ持っている物を返せ! 久しく尋ねていた我が家の物だ! それの一つだ、返せ返せ! ……刑部《おさかべ》殿々々々、お出合いくだされ! あなたにとっても大切の物が、見付かりましてござりますぞ! ……得体の知れない老人が、持って立ち去ろうといたします! ……お出合いくだされ、お出合いくだされ! ……あッ、切り込んで参ります! 妾は殺されそうでござります! お出合いくだされ! お助けくだされ!」
「黙れ!」と碩寿翁は叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。
「汝《おのれ》こそ誰だ、不届きの女め! 拙者の持ち物を取ろうとする! ……うむ、うむ、うむ、汝もそうか! 汝もこいつを探している一人か! ……では許されぬ! 助けはしない! ……くたばれ!」と、毒々しく食らわせたが、一躍すると颯《さっ》と切った。
辛くもひっ外した巫女の千賀子は、御幣《ごへい》を尚も頭上で振ったが、
「なんの汝に! 切られてなろうか! なんの汝に! 取られてなろうか! ……返せ返せ、我が家の物だ! ……刑部殿、刑部殿、刑部殿!」
するとその声が聞こえたのであろう、露路の奥から応ずる声がした。
「おお千賀子殿か、何事でござる!」
つづいて走って来る足の音がしたが、刑部老人が来るのでもあろう。道服めいた衣裳を着て、払子《ほっす》を持った身長《たけ》の高い翁《おきな》の、古物商の刑部が露路を走って、露路の口まで出て来た時には、しかし松平碩寿翁は、その辺りにはいなかった。月の光を青々と刎《は》ねて、数間の先を走っていた。
「あッ、ありゃア碩寿翁様だ! ……え、あの方があれ[#「あれ」に傍点]を持って? ……ふうむ、さようか、それはそれは。いやそれなら大事ない! 私に取り返す策がある。……が、待てよ、こいつはいけない! ……大変だ大変だかえって大変だ!」
それから三日の日が経った時に、旅よそおいをした一人の武士が、飛騨の峠路を辿っていた。
ほかならぬ宮川|茅野雄《ちのお》であった。
巨木が鬱々と繁っていて、峠の路は薄暗く、山蛭《やまひる》などが落ちて来て、気味の悪さも一通りでなかった。と、その時唸りをなして、一本の征矢《そや》が飛んで来たが、杉の老幹の一所へ立った。矢文と見えて紙が巻いてある。
「はてな?」と、立ち止まった宮川茅野雄は、手を延ばすと文をほぐし取ったが、開いて読むと血相を変えた。
「醍醐《だいご》弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」
矢文に書いてあった文字《もんじ》である。
で、茅野雄は顔色を変えて、突っ立ったままで考え込んだ。
思い出されるのは、いつぞやの晩に、醍醐弦四郎という浪人者に、突然切ってかかられたあげく、
「あの巫女《みこ》が占いをいたした以上は貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょう。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際にはいつも貴殿の生命《いのち》を巡って、拙者の刃《やいば》のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい」と、このように云った言葉であった。
(それでは醍醐弦四郎という男は、俺と敵対をするために、このように飛騨の山中まで後をつけて来て矢文を射て、
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