かし茅野雄に油断があろうか、逼って来た足音で自《おの》ずと解った、振り返ったと見るや片手撲りだ、敵の真っ向を朱《あけ》に染め、その隙にこれも追いついて、前後から切り込んで来た二人の敵の、前の一人を袈裟《けさ》に斃し、引き足もしない同じ位置で、ブン廻るように廻ったが、後ろの一人の腕を落とした。
「待て! 弦四郎!」
 一散に走り、追い詰めると颯《さっ》と前へ出て、行く手を扼《やく》したが大音声だ。
「娘を放せ! 切って来い! 汝《おのれ》の味方を五人斃した、茅野雄は汝が敵であろうぞ! 遁しはしまい、拙者も遁さぬ! 逃げても切るぞ来ても切る!」
 ――で、グ――ッと刀を冠った。
 と、その刀と向かい合って、一本の刀が茅野雄の眉間へ、切っ先を向けて宙へ浮かんだ。もういけないと観念をして、小枝を地上へ抛り出し、抜き合わせた醍醐弦四郎の、正眼に構えた刀であった。
 上と下とで二本の刀が、凄じい気合で拍子取っている。刀の切っ先を真直ぐに越して、茅野雄を睨んでいる弦四郎の眼と、刀の柄頭の下を通して、弦四郎を睨んでいる茅野雄の眼とが、互いに相手を射殺そうとしている。
 しばらくは二人とも動かない。
 で、天地が寂然と、にわかに眠ってしまったかのように、二人には感じていなければならない。
 しかしそれにしても弦四郎と一緒に、茅野雄を襲った丹生川平の、九人の男達はどうしたことであろう?
 そのうちの五人は茅野雄のために、今までに斃されてしまったが、後にまだ四人残っているはずだ。何故茅野雄に切ってかからないのであろう? 茅野雄の手並に驚いて、いずこへともなく逃げたのであろうか? 逃げたと云わなければならないかもしれない。四人ながら一散に大森林の方へ、今や走っているのであるから。
 その大森林の向こうの側に、丹生川平はあるのであった。
 走って行くのは事実であったが、逃げて行くのだとは云われないかもしれない。
 四人バラバラに森林の中へ入ると、四方八方へ駈け廻《めぐ》って、手に石を拾い取ると、一種の合図めいた調子を取って、老木の幹を叩きつづけたのであるから。
 と、どうだろう、遥か奥から、それに答えでもするかのように、同じ一種の合図めいた、調子を持った木を叩く音が、木精《こだま》を起こして聞こえてきた。が、もし誰かが森林の奥へ、さらに踏み入って耳を澄ましたならば、一層に森林の奥の方から、同じような音の聞こえてくることに、感付いたことに相違ない。いやいやそういう合図めいた音は、それらの場所から起こるばかりでなく、次から次へ、奥から奥へ、次第次第に送りをなして、丹生川平の郷へまで、伝わり伝わって行くのであった。
 飛騨というような山国にあっては、猛獣や毒蛇や山賊などに、しばしば人は襲われるもので、そういう場合の警報として、いろいろの里や、いろいろの郷や、さまざまの村に住居している、住民達は里別郷別に、木を叩くとか竹法螺《たけぼら》を吹くとか、枯れ木に火をかけて煙りを上げるとか、そういうことをすることにしていた。
 丹生川平の郷にあっては、木の幹を叩いて警報することが、それに当っているものと見える。
 軽い危険の場合には、それに一致した叩き方をして、森林の中に散在して、枯れ木を採ったり伐木したり、馬を飼ったりしている者を、最初に合図の起こった場所へ、呼び寄せて加勢をさせることに、大体|定《き》まっているのであったが、重大な危険の場合には、それに一致した叩き方をして、次から次と今のように、丹生川平の郷へまで知らせて、そこから大勢の加勢の者を、呼び寄せることになっていた。
 今や、大危険の警報が、四里に渡る森林の中を縫い入って、丹生川平の郷の方へ、素晴らしい速さで送られて行く。
 名に負う飛騨の大森林である。杉や樫や桧や、楢《なら》や落葉松《からまつ》というような、喬木が鬱々蒼々と繁って、日の光など通そうとはしない。そうかと思うと茨《ばら》だの、櫨《はぜ》だの、躑躅《つつじ》だの、もち[#「もち」に傍点]だのというような、灌木の叢《くさむら》が丘のように、地上へこんもり[#「こんもり」に傍点]と生えていて、土の色をさえ見せようとしていない。で、ほとんど黄昏《たそがれ》のように、森林の中は暗く寂しく、物恐ろしくさえ眺められた。
 そういう森林に音響の線が、太く素早く走って行く。
 四里ぐらいの道程《みちのり》は瞬《またたく》間に、行きついてしまうに相違ない。すると丹生川平から、鉄砲や弓や山刀や槍の、武器をたずさえた郷民達が、大勢大挙して現われ出て、大森林を押し通って、曠野の面へ現われて、弦四郎を助けて宮川茅野雄を、おっ取り囲んで討ち取るであろう。
 とまれ大危険を警報する、調子を持った木を叩く音が、次第次第に、丹生川平の方へ伝わって行く。
 が、もし人が曠野の一所の丘――すなわち醍醐弦四郎や丹生川平の男達が、現われて来た例の丘の、背後へ行って眺めたならば、小枝の侍女達三人が、丹生川平の男達の掠奪の手から遁れたところの、侍女達三人が転んだり起きたり、走ったり仆れたり泣いたり叫んだりして、丹生川平の男達に、小枝が奪われたという知らせを、白河戸郷へ知らせようものと、一里の道程を命がけに、走って行く姿を見たことであろう。
 女の足で走るのであるから、一里と云っても容易なことでは、行くつくことが出来ないであろう。とは云えいずれは行きつくであろう。と、白河戸郷の郷民達は、それこそ鉄砲や弓や山刀や、槍をたずさえて大挙して、白河戸郷から走り出て、一里の曠野を走って来て、茅野雄を助けて弦四郎を、引っ包んで討って取ることであろう。
 侍女達は懸命に走って行く。
 ところで小枝《さえだ》はどうしたであろうか?
 気絶したままで草の上に、衣裳を崩して仆れていた。
 丹生川平の九人の男達に、掠奪をされてここまで来たが、その九人の男達が、弦四郎を助けて宮川茅野雄を、討って取ろうと心掛けた結果、投げ出した九人の小枝の侍女達は、今やどこにいるであろう。その幾人かは気絶をして、草の上に無残に仆れていたが、その幾人かは自分達の主人の、気絶をしている小枝を囲んで、呼び生かそうと手を尽くしていた。が、その幾人かはこの出来事を、白河戸郷の郷民達へ、知らせようものと叫んだり喚いたり、同じく転んだり起きたりして、曠野の草花を蹴散らして、一所懸命に走っていた。
 そういう悲惨なあわただしい、光景の中に突っ立って、茅野雄は上段に弦四郎は正眼に、刀を構えて睨み合っていた。

騎馬の一団

 危急を知らせる合図の音が――調子を持った木を叩く音が、四里の森林を丹生川平の方へ、矢のように早く伝わって行く。
 と、森林の壁が切れて、向こうに丘が聳えていたが、忽ち丘の頂きの上に、数人の男が現われた。その丘の奥が丹生川平であって、頂きへ現われた男達は、丹生川平の住民達であった。
 眼の前に連らなっている森林の中から、伝わって来た合図の音を聞くと、男達は何やら叫び声を上げたが、丘の頂きから姿を消した。
 と、思う間もないうちに、馬の蹄《ひづめ》の音がして、忽然と数十人の騎馬の一団が、丘の頂きへ現われた。
 弓を持っている者、棍棒《こんぼう》を持っている者、竹槍を小脇に抱えている者、騎馬の一団は一人残らず、各自《めいめい》得物を持っていたが、その扮装《いでたち》には異《か》わりがなく、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を帯びていた。精悍らしい若者達で、血色もよければ四肢も逞しく、いかにも飛騨という山岳国の、森林の中へ特殊の郷を設けて、生活をしている人間らしかった。
 飛騨と信州とは接近しているので、自然も動物もよく似ていたが、彼らの乗っている馬と来ては、信州駒――わけても木曽駒に似ていて、背丈こそ低く、形こそ小さく、一見貧弱ではあったけれども、脚の強さ息の長さ、険しい山道を上り下りする場合に、決して転《まろ》びもせず膝も突かず、また縦横に入り乱れている木々の間を巧みに縫って、駛《はし》るに得意な点などにかけては、南部駒よりも、三春駒よりも、遥かに優れているのであった。
 そういう駒に打ち乗って、丹生川平の男達が、今や丘から走《は》せ下り、森林の中を突破して、宮川茅野雄と醍醐弦四郎とが、切り合っている曠野の方へ、無二無三に押し出そうとしている。
 いや押し出そうとしているばかりではなくて、事実無二無三に押し出して来て、瞬間に丘を走り下りて、森林の中へ走り込んだ。
 で、その丘のなだらかな斜面は、蹄で蹴られて雲のように、ムラムラと上った砂煙りのために、一時全く蔽われたように見え、啼いていた小鳥の歌声も途絶え、飛び散って咲いていた草の花の、織り物のように鮮麗だった色も、砂煙りの奥へ消え込んでしまった。
 が、その時分には騎馬の一団は、森林の中を走っていた。
 いかに彼らが馬術に達し、熟練を極めていることか! 灌木があれば躍り越し、喬木があれば巡って進み、沼があれば岸を輪なり[#「なり」に傍点]に馳せ、網の目のように強靱の蔓が数間に渡って張られてあれば、得物で切り払って突破した。当然の所業《しわざ》ではあったけれども、何とその所作が敏捷で、かつ自在であることか!
 と、一団が雁行《がんこう》をなした。馬の首が前方を走っているところの、他の馬の尻に触れそうなほどにも、接近をして走っておりながらも、前の馬の走る邪魔をしない。
 と、一団が鶴翼《かくよく》をなした。宏大な森林を横へ拡がり、横隊をなして走らせて行く。無数の障碍物《しょうがいぶつ》を持ちながら、その障碍物を巧みに避《よ》けて、互いに呼び合うことによって、一定の間隔をいつも保ち、疾風のように走って行く。
 一匹の馬が躓《つまず》いて、乗り手が逆様《さかさま》に落ちようとした。しかしその時にはもう一人の乗り手が、いち早く横手へ走って来ていて、落ちかかった乗り手を手を延ばして支えた。
 やがて一団は集合したままで走った。
 彼らの走って行った後に、何が残されているだろう? 踏みにじられた無数の草花と、蹄で掘られた無数の小穴と、蹴殺された幾匹かの野兎と、折られた木の枝と散らされた葉と、崩された沼の岸とであった。
 一所から彼らの一団の、姿が見えなくなった時には、遥かの前方の一所に、彼らの一団が見えていた。
 得物の触れ合う金属性の音と、絶えず叫んでいる警戒の声と、馬の嘶《いなな》きと蹄の音とが、一つに塊《かた》まった雑音が、一所で起こって消えた時には、既に遥かの前方で、同じ雑音が起こっていた。
 不意に彼らの一団の上に、華やかな光が輝いた。空を蔽うていた森林が切れて、そこから日の光が落ちて来たからである。と、彼らの一団の中で、雪のように白く輝く物があったが、それは三頭の白馬であった。
 しかし瞬間に彼《か》の一団は、輝かしい日の光の圏内から消えて、暗い寂しい物恐ろしい、森林の奥へ消え込んだ。
 こうして無二無三に走って行く。
 この勢いで走ったならば、四里の道程《みちのり》などは一時間《はんとき》足らずで、走り抜けてしまうことであろう。
 そうして曠野へ現われたならば、醍醐弦四郎に力を添えて、宮川茅野雄を打って取って、小枝を奪うことであろう。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 しかしこういう呼び声を上げて、白河戸郷の長の娘の、小枝の侍女達の命限りに、曠野を転んだり起きたりして、道程一里の白河戸郷の方へ、小枝が怨敵丹生川平の者に、誘拐《かどわか》されたということを、告げるために走って行っていることに、一方留意をしなければならない。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 侍女達は懸命に走って行く。
 一人の侍女がまた転んだ。と、衣裳の裾が乱れて、白い脛《はぎ》が現われた。恥かしいとも思わずに、あらわな脛で立ち上ると、あらわな脛でその侍女は走った。
 もう一人の侍女が地に仆れた。その瞬間に握ったのでもあろう、起き上った時に右の手に、野茨《のいばら》の花を握っていた。枝も一緒に握ったものと見えて、その枝の刺《とげ》に刺されたらしく、指から生血
前へ 次へ
全20ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング