ているらしい。
(若い女子《おなご》を悪者が、誘拐《かどわか》そうとしているのであろう)
こういう場合の常識として、ふと茅野雄はこう思った。
(ともかくも行ってみることにしよう)
で、茅野雄は小走った。
と、その時丘を巡って、一人の女を小脇に抱えた、逞しい武士が現われたが、茅野雄の方へ走って来た。
弦四郎の心! 茅野雄の心!
と、見てとった宮川茅野雄は、立ち向かうように足を止めた。
と、女を小脇に抱えた、逞しい武士は走って来たが、腕前に自信があるがためか、傍若無人の心持からか、遮った茅野雄を無視するように、避けもせずに駆け抜けようとした。
「待て!」
「邪魔だ!」
「こ奴、悪漢!」
「よッ、貴殿は宮川氏か!」
「どなたでござるな?」
「醍醐弦四郎でござる!」
「これはいかにも醍醐氏であったか!」
いつぞや江戸の小石川の、松倉屋勘右衛門の別邸の前で、弦四郎に突然に切りかけられた時には、月こそあったが夜であったので、醍醐弦四郎の顔や姿を、ハッキリと見ることは出来なかった。
で、今、こうやって邂逅《いきあ》った時にも、早速には逞しいこの武士が、醍醐弦四郎であることは気がつかなかった。
しかし一方弦四郎の方では、いうところの競争相手として、茅野雄の身分から屋敷から顔や姿までも調べて置いたらしい。
で、今こうやって邂逅って、二言三言罵り合っている間に、弦四郎が茅野雄だということを、早くも見て取って声をかけたのであった。
しかし弦四郎は声をかけてから、「しまった!」と思わざるを得なかった。いやいや、「しまった!」というよりも、「どう処置をしたらよいだろうか?」とこう思わざるを得なかった。と云うのは弦四郎は茅野雄の後を尾行《つけ》て、わざわざ飛騨の山の中へ、入り込んで来た身の上であって、道に迷って茅野雄を見失い、偶然に丹生川平という、不思議な郷へ入ったものの、心では常時《しじゅう》茅野雄の行衛を、知りたいものと思っていた。その茅野雄に今や邂逅ったのである。
本来なれば何も彼もすてて、茅野雄の後を尾行て行くか、でなかったら後腹《あとばら》の痛《や》めぬように――競争相手を滅ぼす意味で――討って取るのが本当であった。
が、しかし今は出来なかった。
と云うのはせっかくに白河戸郷の、郷長《むらおさ》の娘の小枝《さえだ》という乙女を、奪って小脇に抱えている。で、この小枝を丹生川平へ、首尾よく連れて行くことが出来たら、白河戸郷の勢力を弱めて、滅ぼすことが出来るかもしれない。滅ぼすことが出来たならば、丹生川平の郷の長の、宮川覚明と約束をした通りに、覚明の娘の浪江という美女を手中へ入れることも出来、それが出来なくとも丹生川平の、守護神とも云うべき神殿の中へ――弦四郎にはある種の予感によって、神殿の中に高価な物が、蔵されてあるように感じられていた。――その神殿の内陣へ、入って行くことが出来るのであった。
茅野雄の後を尾行《つけ》るとなれば、小枝を捨てなければならないだろう。弦四郎には小枝が捨てかねた。茅野雄と戦って茅野雄を殺すにしても、小枝を地上へ下ろさねばなるまい。下ろされた小枝は逃げ去るであろう。弦四郎には小枝に逃げられることが、どうにも苦痛でならなかった。
では小枝を小脇に抱えたまま、茅野雄を見捨て丹生川平へ行こうか。すると茅野雄は行衛不明になろう。と、後を尾行て行くことが出来ない。これが弦四郎には苦痛であった。
(百発百中に予言をする、巫女《みこ》の千賀子が茅野雄に向かって、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と、こう予言をしたからには、間違いなく茅野雄はその何かを、手に入れるものとみなさなければならない。その何かが何であるかを、俺は大略《おおよそ》知っている。恐ろしいほどにも高価なものだ。茅野雄の手へは渡されない。是非とも俺が手に入れなければならない。ではどうしても茅野雄の後を尾行て、彼の行く所へ自分も行って、彼が何かを得ようとするのを、邪魔をして横取りしなければならない)と、いう思惑があるからであった。
右することも出来なければ、左することも出来ないというのが、現在の弦四郎の心持であった。
一方宮川茅野雄においては、弦四郎に対して咎めたいことが、いろいろ心にわだかまっていた。たとえば自分は巫女の占った、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と云う、その占いを実現しようとして、飛騨の山の中へ来たのでもないのに、「醍醐弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」などと、あのような矢文を射てよこして、こちらの心を不安にさせたのは、不届きではないかと咎めもしたければ、あの巫女の占った「何か」なるものを、弦四郎は知っているらしいので、かえって訊ねて見たいとも思った。そうして自分がこのようにして、飛騨の山の中へ入り込んで来たのは、丹生川平という郷にいる、宮川覚明という叔父の一族と、邂逅《かいこう》しようがためなのであると、そういうことも告げたかった。
が、しかしそれより茅野雄としては、現在弦四郎が小脇に抱えている、姫君のように美しく若い、気絶をしている乙女の身分と、何故にそういう乙女を攫《さら》って、どこへ行くのか何をしようとするのかを、詰問したい衝動に猟り立てられた。
で、茅野雄はたしなめる[#「たしなめる」に傍点]ように云った。
「拙者貴殿に対しては、いろいろ申し上げたいこともあり、お訊ねいたしたいこともあり、釈明いたしたいこともござる。が、まずそれはそれとして、ゆっくり後日に譲ってもよろしい。しかし後日に譲れないのは、現在の貴殿の悪行を、見過ごしにするということでござる。見れば臈《ろう》たけた[#「たけた」に傍点]娘ごを、貴殿には誘拐なされようとしている。穢《きたな》い所業、卑怯でござるぞ! 武士たる者のすべきことではござらぬ! 娘ごを放しておやりなされ! もしも悪行をつづけられるならば……」
ここで刀の柄頭《つかがしら》を、茅野雄はトントンと右手で叩いたが、
「勿論拙者にはその娘ごの、身分も存ぜねば名も存ぜぬ。また娘ごと貴殿との間の、交渉も知らねば関係も知らぬ。が、偶然来合わせて、この眼で貴殿の悪行を――さようさよう打ち見たところ、貴殿には正義の武士でなく、この出来事は悪行らしゅう厶《ござる》。――で、貴殿の悪行を、認めた以上は打ち捨ては置かれぬ。貴殿に制裁を加えた上で、その娘ごをお助けせねばならぬ」
ここでまた茅野雄は右の手でトントンと刀の柄頭を打った。
「娘ごを放しておやりなされ! 否と申さば太刀打ち申そう! いかがでござる! いかがでござる!」――で、右手で刀の柄を握り、拇指《ぼし》で鯉口をグッと切った。抜き打ちに切ろうとする足の踏み方だ、右足を一歩前へ踏み出し、左足のかかと[#「かかと」に傍点]を軽く上げ、体全体を斜めにして、刀の柄を握った上にソリを打たせて上へ上げたので、右の手の肘が矩形《くけい》をなして、胸の上まで上ったのを、拍子取るように揺るがして、弦四郎の眼を睨み付けた。否と云ったならばただ一刀に、弦四郎の左の胴からかけて、胸まで割り付ける意気込みであった。握った手に余った柄頭の、金具が日の光に反射して、露が溜ってでもいるように、細かく生白《なまじろ》く光って見えた。
(凄いの! これは! 凄い気魄だ!)
物も云わなければ動きもしないで、茅野雄の動作と言葉とへ、注意を向けていた弦四郎は、こう思わざるを得なかった。
(正当に太刀打ちをしたところで、五分と五分の勝負になろう。小枝などを抱えていて、片手でうかうかあしらおうものなら、こっちがあぶない、仕止められるであろう。言葉をもって云いくるめようとしても、眩まされるような人物でもない。彼の云う通り小枝を放して、丹生川平へ逃げ帰るか、ないしは真剣に切り合うより、他に手段はなさそうだ。どっちにしても困ったものだ)
弦四郎は処置に当惑した。
しかしその時丘の背後《うしろ》から、今まで聞こえていた女達の悲鳴や、男達の喚き罵っていた声が、急にこなたへ近寄って来て、すぐに九人の荒くれた男が、若い女を一人ずつ抱いて、丘の陰から走り出て、こっちに走って来るのが見えた。
丹生川平の若者達で、女は小枝の侍女達であった。弦四郎が小枝を奪ったのを習って、一人ずつ侍女達を奪って来たのであった。
と、見て取った弦四郎は、しめた! とばかり心で想った。
「方々!」と、そこで大音に、若者達へけしかける[#「けしかける」に傍点]ように云った。
「この武士を打ってお取りなされ、我ら小枝を奪ったのに対して、こ奴は邪魔立て致そうとしております! 我々の怨敵白河戸郷に、味方を致す人間と見えます! 女子どもを打ち捨ておかかりなされ!」
この言葉は、極めて効果的であった。
(白河戸郷に味方する奴なら、我らにとっては怨敵である! やれ! 逃がすな! 切り刻め!)と、云う感情を男達の心へ、一斉に理性なしに湧き起こさせたのであるから。
ワ――ッというような叫声が、九人の男から起こった時には、九人の若い侍女達が、地上へ抛《ほう》り出された時であり、九本の刀が夏の日の光に、氷柱《つらら》のように光った時であり、意外の出来事に驚いて、棒立ちに立った茅野雄の左右へ、男達の逼った時であった。
男達の凄じい殺気立った顔と、虐殺することを喜んでいるらしい、男達の悪鬼じみた[#「じみた」に傍点]態度とは、茅野雄をして口をひらかせて、事の真相を弁解させるべく、無駄であることを思わせた。
五人を切った宮川茅野雄
(こうなってはもういけない! 相手を切らなければこっちが切られる)
で、茅野雄は一躍したが、真っ先立って逼って来た、敵の一人の右の肩を、抜き打ちにカッとぶった[#「ぶった」に傍点]切り、悲鳴を耳にした次の瞬間には、左から寄せて来た敵の一人の、左の胴を割っていた。
日が明るくて鳥が啼いている!
晴ればれとした曠野には、草花が虹を敷いている。
が、その虹を蹴散らして、ドッと合わさり、サ――ッと散る、黒々とした物があった。二人の味方を切り仆されて、死に物狂いに狂い立った、丹生川平の男達であった。馳せ寄って茅野雄を引っ包んだり、茅野雄の振る太刀に敵しかねて、退いたりしているのであった。
四本の腕が空を掴み、四本の脚が草花をむしり、ぬらぬらとした真紅《まっか》の色が、草と土とを濡らしていたが、これはどうしたことなのであろう? 茅野雄によって切り仆された、二人の男達が傷の痛みに、もがき廻っているのであった。
その凄惨とした光景の中に、一本の線が空に斜めに、微動しながら浮いていた。上段に冠って敵に向かい、来い! 切るぞ! 斃《たお》すぞと、構えている茅野雄の刀身であった。空の一所に雲があって、野茨の花が群れているように見えたが、ゆるゆると動いて太陽《ひ》を蔽うた。と、さながら氷柱のように、白光りをしていた刀身が、にわかに色を変えて桔梗色《ききょういろ》となった。が、それとても一瞬《ひとしきり》で、刀身はまたもや白く輝き、柄で蔽われていた茅野雄の額の、陰影《かげ》さえ消えて炬《きょ》のような眼が、眼前数間の彼方《あなた》に群立《むらだ》ち、刀の切っ先を此方《こなた》へ差し向け、隙があったら一斉に寄せて、打って取ろうとひしめいている、七人の敵を睨んでいた。
と、茅野雄はギョッとして、七人の敵から眼を放して、グルグルと四方へ眼を配った。
娘を小脇に引っ抱えた、醍醐弦四郎はどうしたか? ここに思いが至ったからであった。
十間あまりの左手を、向こうへ走って行く人影がある。
それこそ醍醐弦四郎で、依然として娘を抱えていた。
「待て! 弦四郎! 逃げるか! 卑怯!」
茅野雄は怒声を浴びせかけたが、浴びせかけた時には追っかけていた。
が、茅野雄が追っかけていた時には、七人の男達も追っかけていた。
と、そのうちの一人であったが、群より離れて素早く走り、茅野雄の背後へ追いつくや、茅野雄の後脳を二つに割るべく、刀を冠って振り下ろした。
し
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