待て!」と、弦四郎は声をかけたが、すぐにスッと走り寄り、巫女の片袖へ手をかけた。
「千賀子殿でござろう、相違ござるまい!」
だがその巫女は返辞もしないで、取られた片袖を柔かに外し、同じ辷るような歩き方で、根津の方角へ足を運んだ。
一種いわれぬ威厳があって、遮ろうにも遮ることが出来ない。
で、弦四郎は立ったままでいたが、千賀子の姿が見えなくなるや嘲るような声をもらした。
「碩寿翁には先手を打たれ、千賀子には謎語《めいご》を浴びせかけられてしまった。今夜は、俺にはめでたくない晩だ。二度あることは三度あるというが、もう一度、今夜中に嚇されるかもしれない」
(それにしてもどういう意味なのであろう? あの方はご出立なさいました、あなたもご出立なさいませとは?)
しかし間もなく謎語の意味が、醍醐《だいご》弦四郎には解けて来た。
「伊十郎めに早く逢おう」
こうして足を早ませて、両国の橋詰めまで行った時に、向こうから一人の若い武士が、息をせき切って走って来たが、
「おおこれは醍醐殿で」
「伊十郎氏か、何か起こったか?」
「宮川|茅野雄《ちのお》が旅に立ちました」
(ははあこの事を云ったのだな、あの千賀子という女巫女は)
「おおさようか、で、何処《いずこ》へ?」
「まずお聞きなさりませ」
年は二十八九であろうか、帷子《かたびら》に小袴をつけている。敏捷らしい顔立ちのうちに、一味の殺気の凝《こ》っているのは、善良でない証拠と云えよう。醍醐弦四郎の部下と見えて弦四郎に対しては慇懃《いんぎん》である。
「まずお聞きなさりませ」
半田伊十郎は話し出した。
「ご貴殿のお指図《さしず》がありましたので、昨夜より私茅野雄めの邸を、警戒いたしましてござります。ところが今朝になりまして、にわかに旅支度をいたしまして、茅野雄には邸を立ちいでましたので、すぐに私|事《こと》玄関へかかり、茅野雄の友人と偽わりまして、行く先を詳しく訊ねましたところ、僕《しもべ》らしい老人の申しますことには、飛騨の国は高山城下より、十五里あまり離れましたところの、丹生川平《にゅうがわだいら》という一つの郷《ごう》へ、参りました旨語りましたので、早速お耳に入れたく存じて、お邸へ参上いたしましたところ、ご外出にてご不在とのこと、そこで止むなくお約束の場所の、ここでお待ち受けいたしますうちに、お姿をお見かけいたしましたので、馳《は》せ参った次第にござります」
「そうか」と、それを聞くと醍醐弦四郎は、大きく一つ頷いて見せたが、
「すぐ俺も出立しよう」
「は、ご出立? でどちらへ?」
「云うまでもない、丹生川平へよ」
「茅野雄の後を追いましてな」
「素晴らしい何かを求めてだよ」
「で、我々一党の者は?」
「出立々々、同時に出立!」
「かしこまりましてございます」
――で、二人は引っ返したが、この頃松平碩寿翁においては、刑部屋敷の露路の口で、一人の若者と話していた。
兇悪の碩寿翁
(醍醐弦四郎と云ったあの男も、俺と同じ物を探しているらしい。油断のならない人物らしかったが、とんでもない競争者が出て来たものだ)
碩寿翁はこんなことを思いながら、弦四郎の立ち去ったその後においても、蒐集部屋の中をあちらこちらと、珍奇の器具類を調べながら、しばらくの間はさまよっていた。
(今日はこれぐらいで帰るとしよう)
で、碩寿翁は蒐集部屋を出たが、出たところに露路があって、それをウネウネと幾廻りかして、往来へ出なければならなかった。
こうして碩寿翁は露路口まで来た。と、その時一人の男が、誰かに追われてでもいるかのように、息を切らして走って来たが、そこまで来ると足を止めて、キョロキョロ四辺《あたり》を見廻し出した。
「もし」と、碩寿翁を眼に入れたので、その若者は声をかけた。
「ちょっとお訊ねいたしますが、刑部屋敷と申します屋敷は、どこら辺りでござりましょうか?」
「刑部屋敷か、刑部屋敷はここだ。たった今私の出て来たところだ」
こう云うと碩寿翁は若者を見た。
「おやそうでございましたか。やっと安心いたしました。で、はなはだ失礼ながら、あなた様がお屋敷のご主人で?」
「何か用でもあるというのか?」
「主人の用事でござります。はいはい私のご主人様の。ええ私のご主人様と申すは、松倉屋の奥様にござります。私ことは京助と申して、寵愛の手代にござります。で、奥様が仰せられました。この品物を持って行って、刑部屋敷のご主人に逢って、お手渡しをして参るがよい。一緒に書面もお渡ししな。そうしてご返辞をいただいて参れ。下さるものがあるだろう、それをもいただいて参るがよい。……これが品物にございます。これがお手紙にござります。……品物の中身は存じませぬが、どうやら高価の品物らしく、それが証拠には勘右衛門様が――はい松倉屋
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