た巫女の千賀子は、御幣《ごへい》を尚も頭上で振ったが、
「なんの汝に! 切られてなろうか! なんの汝に! 取られてなろうか! ……返せ返せ、我が家の物だ! ……刑部殿、刑部殿、刑部殿!」
 するとその声が聞こえたのであろう、露路の奥から応ずる声がした。
「おお千賀子殿か、何事でござる!」
 つづいて走って来る足の音がしたが、刑部老人が来るのでもあろう。道服めいた衣裳を着て、払子《ほっす》を持った身長《たけ》の高い翁《おきな》の、古物商の刑部が露路を走って、露路の口まで出て来た時には、しかし松平碩寿翁は、その辺りにはいなかった。月の光を青々と刎《は》ねて、数間の先を走っていた。
「あッ、ありゃア碩寿翁様だ! ……え、あの方があれ[#「あれ」に傍点]を持って? ……ふうむ、さようか、それはそれは。いやそれなら大事ない! 私に取り返す策がある。……が、待てよ、こいつはいけない! ……大変だ大変だかえって大変だ!」

 それから三日の日が経った時に、旅よそおいをした一人の武士が、飛騨の峠路を辿っていた。
 ほかならぬ宮川|茅野雄《ちのお》であった。
 巨木が鬱々と繁っていて、峠の路は薄暗く、山蛭《やまひる》などが落ちて来て、気味の悪さも一通りでなかった。と、その時唸りをなして、一本の征矢《そや》が飛んで来たが、杉の老幹の一所へ立った。矢文と見えて紙が巻いてある。
「はてな?」と、立ち止まった宮川茅野雄は、手を延ばすと文をほぐし取ったが、開いて読むと血相を変えた。
「醍醐《だいご》弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」
 矢文に書いてあった文字《もんじ》である。
 で、茅野雄は顔色を変えて、突っ立ったままで考え込んだ。
 思い出されるのは、いつぞやの晩に、醍醐弦四郎という浪人者に、突然切ってかかられたあげく、
「あの巫女《みこ》が占いをいたした以上は貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょう。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際にはいつも貴殿の生命《いのち》を巡って、拙者の刃《やいば》のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい」と、このように云った言葉であった。
(それでは醍醐弦四郎という男は、俺と敵対をするために、このように飛騨の山中まで後をつけて来て矢文を射て、
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