って云って云ってやらなければならない。……それにしても帰りが遅いではないか! 芝居は夕方にハネたはずだのに。……酔った酔った俺は酔った!」
庭をグルグルと歩きながら、酔っているらしい勘右衛門が、女房のお菊の芝居帰りの、あまりに遅いのに心を苛立て、門の内側で相手もないのに、そこに女房がいるかのように、怒鳴ったり喚《わめ》いたりしているのであった。
(なるほど、これではよくないことが、松倉屋の家庭へ起こるかもしれない)
門外に佇んで勘右衛門の独語《ひとりごと》を、聞くともなしに聞いた宮川茅野雄は、こう思わざるを得なかった。
尚も勘右衛門は門の内側で、酔ったあまりに思慮を失って、止める者のないのを幸いにして、怒鳴り声をつづけているようであったが、茅野雄には興味がなくなったので、怒鳴り声を聞きすてて歩き出した。
(抜け荷買いをした人間だそうだ。今でこそ三卿のご用達《ようたし》などと、上品に構えてはいるけれど、一つ間違うと兇暴になって何をやり出すかわからないというのが、松倉屋勘右衛門の本性らしい)
茅野雄は歩きながら思ったりした。
(どれ急いで家《うち》へ帰ろう)
こうして茅野雄が自宅へ帰って、下男の弥助《やすけ》に迎えられて、自分の部屋へ入った時に、一つの運命が待っていた。
飛脚が届けたという書面であった。
「夕方お飛脚が参りまして、この書面を置いて参りました」
これが弥助の言葉であった。
「ほほうどこから来たのであろう? 俺のところへ書面を届けるような、親しい遠方の知人などは、どうにも俺にはなかったはずだが」
呟きながらも宮川茅野雄は、文箱《ふばこ》をあけて書面を出して、静かに文面へ眼を落とした。
「お懐かしき茅野雄様、妾《わたし》は浪江《なみえ》でござります。あなたのたった[#「たった」に傍点]一人きりの、従妹《いとこ》の浪江でござります。浪江があなた様へお願いいたします。妾の処《ところ》へおいでくださいましと。妾の一家は五年前に、――あなた様が長崎へおいでになった時に、江戸を立ってこの地へ参りました。飛騨の国の高山城下から、十里ほど離れた山の奥の、丹生川平《にゅうがわだいら》という寂しい土地へ。……父も母も無事でござります。でも性質は変わりました。敵を持つようになりました[#「なりました」は底本では「なりした」]。で只今私達一族は、苦境にあるのでござり
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