れからそっと襖《ふすま》をあけて、隣り部屋の様子を窺《うかが》った。
「隣り部屋には客がない」
 で、安心したようであった。が、再びそろそろと歩いて、反対側の襖へ行くと、細目に開けて覗いて見た。
「有難い、この部屋にも客がない」
 しかしそれでも不安心と見えて、廊下に向かった障子をあけると、顔を差し出して左右を見た。
「よし」――で、引っ返し、二度行燈の側へ坐り、両手を袂《たもと》から懐中《ふところ》へ入れた。
 取り出したのは小箱であったが、真に美しい鯖《さば》色の光が、小箱の中から射るように射して、部屋を瞬間に輝やかした。
 小箱の中を覗いている、老武士の顔の嬉しそうなことは!
 この老武士は何者であろう?
 他ならぬ松平|碩寿翁《せきじゅおう》であった。
 それにしても何のためにこのような所へ、碩寿翁ともある人が、供も連れずに来たのであろう?
 それには怪奇な事情がある。
 根津仏町|勘解由店《かげゆだな》の刑部《おさかべ》屋敷の露地口で、京助という手代から、一個《ひとつ》の品物を奪い取って以来、碩寿翁は蠱物《まじもの》にでも憑《つ》かれたかのように、心が絶えず動揺し、心が恐怖に襲われた。
 時にはこんなように口走ったりした。
「あのお方があんな所にいられようとは! ……俺はとうとう感付かれてしまった。……俺に恐ろしいはあのお方ばかりだ。俺は体を隠さなければならない」
 で、恐怖に耐えられなくなって、江戸を発足したのであった。
「長崎へ行こう! 長崎へ行こう!」
(この素晴らしい値打ちのある物を、売るのはいかにも惜しいけれど、あのお方にあのように感付かれた以上は、とうてい持ってはいられない。売って金に代えることにしよう。これほどの物を買い取る者は、長崎の蘭人《らんじん》の他にはない)
 で、長崎へ向かったのであった。
 しかるに何という事だろう。碩寿翁の乗っている駕籠の前に、いつも一挺の駕籠がいて、ゆるゆると進んで行くではないか。そればかりなら何でもなかった。その駕籠が強い力をもって、碩寿翁の駕籠を支配するではないか。
 その駕籠が旅籠屋へ入ったとする。と、碩寿翁の乗っている駕籠も同じ旅籠屋へ入るのであった。
 これに気が付いた碩寿翁は、云われぬ恐怖と不思議とを感じて、その駕籠の支配から遁れようとした。
「これこれ駕籠屋、他の旅籠へつけろ」
「へいへいよろしゅ
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