こえる。危急を伝える合図の音が! 拍子を取った木叩きの音が!)
弦四郎は丹生川平に住んで、十日の日数を経《けみ》していた。で、そういう合図の方法の、あるということも知っていたし、そういう方法で合図されるや、丹生川平の郷民たちが、得物を持って馬に乗って、一瞬の間に加勢をするべく、押し出して来るということをも、郷民達に聞いて知っていた。
(一時間《はんとき》あまり待ってやろう。加勢の勢の来るのを待って、茅野雄を処分してやろう)
――で、弦四郎は刀を引くやスッと背後《うしろ》へ身を退け、刀を鞘へ納めてしまった。
「さて、宮川氏、ごらんの通りでござる。拙者、刀を納めてござる。貴殿にも刀をお納めなさるがよろしい」
こう云うと弦四郎はトホンとしたような、不得要領の笑い方をしたが、
「まずご免、あやまります。少しく悪ふざけが過ぎましたようで。が、拙者は道化者なので、こういうことも大好きでござる。と云うこういう[#「こういう」に傍点]事というのは、突然に深夜の江戸の町で、貴殿に切ってかかったり、飛騨の山中の峠道で、妙な矢文を貴殿へ送ったり、また今日のようなこんな恰好で、貴殿と太刀打ちを致したりする。こういうことを云っているのでござる。……アッハッハッ、変わった性質でな。……とは云えもはや飽き飽きしました。かような悪ふざけには飽き飽きしました。で、中止といたします。貴殿にもご中止なさるがよろしい」
訳の解らないことを云い出した。
これにはさすがの宮川茅野雄も、度胆を抜かれざるを得なかった。
(何という事だ! 何という武士だ!)
――で、茅野雄も後へ引いた。
とは云え茅野雄には弦四郎の態度や、云った言葉に合点の行かない、曖昧のところのあるのを感じて、油断をしようとはしなかった。
しかし弦四郎は暢気《のんき》そうに、刀を鞘へ納めてしまうと、両手を胸へ組んでしまって、ブラリブラリと歩き出した。
で、茅野雄も不審ながら、自分ばかりが物々しく、抜いた刀を持っていることが、不恰好のように思われて来た。
で、刀を鞘に納めた。
と、見て取った弦四郎は、一つニタリと含み笑いをしたが、
「高原の景色は美しゅうござるな」
こう云って四辺《あたり》を見るようにした。
「……」――しかし茅野雄は黙っていた。
「綺麗な草の花を茵《しとね》として、美しい婦人方が仆れております」
「さよう!
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