悪と敵愾心《てきがいしん》とが、ひとつ[#「ひとつ」に傍点]になったものを感じたからである。
(駕籠の中に伊豆守はいるのかな? 箱の中には何があるのか? そうしてあの箪笥の中には?)
(こんな深夜にどこへ行くのか?)
 疑惑が疑惑を次々に生んだ。と、その時新八郎は、背後から含み声で声をかけられた。
「小糸氏、お遊びのお帰りかな」
 驚いて新八郎は振り返って見た。三人の武士が背後にいる。

        六

 一人は彼と顔見知りの、十二神《オチフルイ》貝十郎という与力であり、後の二人は知らなかったが、どうやら風俗や態度から見て、貝十郎の輩下にあたる、同心のように思われる。
「や、これは十二神《オチフルイ》氏か」
 新八郎はテレたように云った。声をかけたのは貝十郎であった。
「遊ぶもよろしいが程々になされ」貝十郎は愉快そうに云った。「随分お噂が高うござるぞ。何んにしてもこのような寒い季節に、ブラリブラリとこのような深夜に、お歩きなさるのは考えもので。第一あのような変な物に逢います。『ままごと』や『献上箱』というような物に。……まあ、これもご時世とあればああいうものの跋扈《ばっこ》するのも、仕方ないとは云われましょうがな。全く変なご時世でござる。流行《はやり》唄などにもうたわれております。
『よにあうは、道楽者に驕《おご》り者、転び芸者に山師運上』
『世の中は、諸事ごもっともありがたい、ご前、ご機嫌、さて恐れ入る』
『世の中は、ご無事、ご堅固、致し候、つくばいように拙者その元』
『世にあおう、武芸学門、ご番衆、ただ奉公に律義なる人』……アッハッハッ、変なご時世で。……いや拙者などはその一人で、世にあわぬ者のその一人で、そこで拙者も歌を作ってござる。
『世にあわぬ、与力同心門の犬、権門衆の賄賂番人』……とは云えこれも考えようで、面白いと見れば面白うござる。
『滄浪の水清まばもって吾が纓《えい》を濯《あら》うべく、滄浪の水濁らばもって吾が足を濯《あら》うべし』……融通|無碍《むげ》になりさえすれば、物事かえって面白うござる」
(それ始まったぞ、始まったぞ)
 新八郎は苦笑と共に、こう思わざるを得なかった。
(お喋舌り貝十郎が始まったぞ)
 後世までも十二神《オチフルイ》貝十郎は、宝暦から明和安永へかけての名与力として謳《うた》われて、曲淵甲斐守や依田和泉守や牧野大隅守というような、高名の幾人かの町奉行から「部下」として力にされたばかりでなく「賓客」ないしは「友人」として尊敬されたほどであった。それに彼は学者であった、とは云え天保年間の、大塩中斎というような、ああいう厳《いか》めしい陽明学者ではなく、いうところの軟文学者――いうところの俗学者であった。でその方面の友人には、蜀山人だの宿屋飯盛だの、山東京伝だの式亭三馬だのそう云ったような人達があり、また当時の十八大通、大口屋暁翁だの大和屋文魚だの桂川甫周だのというような、そういう人達とも交際があった。
 後世田沼主殿頭が、まことにみじめに失脚した時、それを諷した阿呆陀羅経が作られ、一時人口に膾炙《かいしゃ》したが、それを作ったのが貝十郎であると、当時ひそかに噂された。
 ※[#歌記号、1−3−28]そもそもわっちが在所は、遠州相良の城にて、七ツ星から、軽薄ばかりで、御側へつん出て、御用をきくやら、老中に成るやら、それから聞きねえ、大名役人役人役替えさせやす。なんのかのとて、いろいろ名をつけ、むしょうに家中の者まで、分限になりやす。あんまりわっちも嬉しまぎれに、とてものついでに、大老なんぞと、これからそろそろむほんと出かけて、出入りの按摩を取り立て、お医者とこしらえ、玉川上水、印旛の新田、吉野の金掘り、む性に上納、御益のおための、なんのかのとて、さまざま名をつけ、おごってみたれば、天の憎しみ、今こそ現われ、てんてこ舞いやら。ヤレまたまたむすこは切られて、孫はくわるる。印旛の水から、関東へ押し出し、新田どころか、五年が間は、皆無になりやす。やれやれ、それから取り立て医者めが、薬が異って、因果とわっちが落度となりやす。御役ははなれて女の老中に、めったに叱られ、これまでいろいろ瞞《だま》して取ったる五万七千、名ばかり名ばかり、七十づらして、こんなつまらぬことこそあるまい。ほんとに今年は、天時つきたる。悲しいことだにほういほうい。
 ――これが彼の作った阿呆陀羅経なのである。辛辣、諷刺、事情通、縦横の文藻、嘲世的態度、とうてい掻《か》い撫《な》での市井人が、いいかげんに作ったものでないことは、おおよそ見当がつくことと思う。殊に一代の名臣ではあったが、その消極的政策と緊縮、節約主義とによって、浮世を暮らしにくく窮屈にした、白河楽翁|事《こと》松平越中守を「女の老中」と喝破したあたりは、彼でなければ出来なかったことで、そうしてこういう点から推して、彼がこの時代の反抗児であり、不平児であったということが、充分推察することが出来る。事実彼はそういう人物であった。そのため彼は後年において、幕府の有司から睨まれて、お役ご免になったばかりでなく、かなり身上を迫害された。そこで彼は江戸を去り、京都西山に閑居したが、所司代から圧迫されたので、名古屋へ移って住むことになったが、武士であっては都合が悪いと云うので、とうとう大小をすててしまい、大須観音の盛り場の――今日いうところの門前町へ、袋物の店を出し、商人として世を終った。
(その屋号を『かみ屋』と云い、今日も子孫が残っていて、同じ門前町に営業している)
 彼が与力であった頃の、風俗というのが粋で渋く、次のようなものだったということである。
 額は三分ほど抜き上げ、刷毛先細い本多髷、羽織は長く、紐は黒竹打ち、小袖は無垢《むく》で袖口は細い、ゆき[#「ゆき」に傍点]も長く紋は細輪、そうして襦袢は五分長のこと、下着は白糸まじりの黒八丈、中着は新形の小紋類、そうして下駄は黒塗りの足駄、大小は極上の鮫鞘《さめざや》で、柄に少し穢《よご》れめをつける、はな紙は利久であった。こういう風俗で十八大通や、蜀山人などと連れ立って、吉原などへ行ったものらしい。
「饒舌《じょうぜつ》にしてわずらわし」――彼についてこう云われている。
「油坊主」「蝉時雨《せみしぐれ》」――などというような綽名《あだな》さえ、彼にはあったということであるが、しかし彼の饒舌《じょうぜつ》は、もちろん天性にもあったろうけれども職掌からも来ているらしかった。と云うのはノベツに能弁に、不得要領のことや洒落《しゃれ》や皮肉や、警句などを連発している間に、容疑者の態度や顔色や、心理の変化を観察したからで、この饒舌が著しく、職業に役立ったということである。
 貝十郎がそのお喋舌りを、新八郎に向かってやり出したのである。
(それ始まったぞ始まったぞ)と、新八郎が苦笑したのは、当然なことと云わざるを得まい。
「とはいえ今日は一月の十五日、貴殿がここへおいでなされて、あの異様な行列をつけて行かれるのは当然とも云えます。が、拙者は、不思議なので。どうしてああいう行列が、今夜あのように練って行くか、お知りなされたかが、不思議なので。探ってお知りなされたかな? それとも恋の念力から……」
 貝十郎は云いつづけて来たが、その間も新八郎の顔を見たり、新八郎の顔を無視し、行列を眼で追ったりした。
 が、俄然として貝十郎は叫んだ。
「ソレ、方々! おやりなされ!」
 同時に喚く声や叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]する声や、太刀打ちの音が行く手から起こり、新八郎の横手を擦り抜け、二人の同心が矢のように、走って行くのが見てとれた。
「新八郎氏、ついて[#「ついて」に傍点]ござれ」
 こう云った時には貝十郎も、行列の方へ走っていた。
 つづいて走り出した新八郎の眼には、朧月の下の往来で、例の女の一団と、例の行列の人数とが、切り合っている姿が見えた。

        七

 新八郎の行きつかない前に、これだけの事件が起こっていた。
 まず女の一団が、にわかに刀を抜き揃え、行列の人数へ切り込むや、お勝手箪笥を担いでいた侍と、献上箱を担いでいた侍とが、お勝手箪笥や献上箱を捨てて、これも刀を抜き揃えて、女の一団と切り結んだ。
 しかし女の一団の、鋭い太刀風に切り立てられ、二、三間後へ退いた。と、見てとった女の一団は、侍達を追おうとはしないで、お勝手箪笥と献上箱とを、六人で担いで側に延びていた、横町の中へ走り込んだ。が、しかし侍達も、うっちゃって置こうとはしなかった。同じ横町へ走り込んだ。そうして取り返した二種の品物を、本通りへ持って来た。
 と、女の一団達は、横町から走り出て来て、侍達へ切ってかかった。こうして乱闘が行われた。
 新八郎は走って行った。しかし新八郎が行きついた時には、行列の人数と女の一団とは、別々の道を辿っていた。新八郎の行きつく少し前に、側の露路から二人の侍が現われ、その中の一人が鋭い声で、例の女の一団に向かい、叱りつけるように声をかけると、女の一団は驚いたように、行列の人数に切ってかかるのを止め、例の横町の方角へ逃げ、行列の人数はそれを幸いに、行列を急がせて先へ進んだからである。
 ところが十二神《オチフルイ》貝十郎であるが、その頃その場へ駈けつけていたが、そう声をかけた侍の姿を見ると、一緒に走っていた二人の同心へ、
「よし! 止めろ! 手を出すな!」
 と叫び、これも例の横町の中へ、同心と一緒に走り込んだ。
 がしかし新八郎が貝十郎の後から、貝十郎の後をつけて行ったなら、
「やあこれはどうしたのだ※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 献上箱と『ままごと』とを、向こうへも担いで行く者がある! ご両所、あれを……」
 とこう云ってから、二人の同心へ小さい声で何やら囁いたことを見聞きしたことであろう。しかし後からつけて行かなかった、小糸新八郎にはそのようなことを、見聞きすることは出来なかった。その後はどうなったか?
 行列の人数がずっと先を、今は安心したものと見えて、ゆっくりした足どりで歩いて行き、その後から二人の侍が行き――その一人は声をかけた侍であり、もう一人はその侍の家来らしかったが――その後から小糸新八郎が、疑惑の解けない心持ちで、歩いて行くという結果になった。
 次から次と起こって来る変わった事件に、新八郎の心は、解けない疑惑に充たされていたが、それよりも眼前を歩いて行く、二人の侍の中の一人――声をかけた侍に引きつけられていた。深編笠、無紋の羽織、袴なしの着流しで、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な大小を穏かに差し、塗り下駄を穿いた二十八、九歳の侍で、貴人のような威厳があった。それは評判の「館林様」であった。
 ところで新八郎はその人の評判を、以前から聞いてはいたけれど、姿を見たことは一度もなかった。で、今、館林様が歩いていても、そうだということは知らなかった。
(一言二言鋭い口調で、叱るように何か云ったかと思うと、争闘をしていた二組の者や、有名な十二神《オチフルイ》氏というような人まで、その言葉に驚いて逃げてしまった。よほど偉大なる人物でなければならない)
 いったいどういう人物なのであろう? この疑問が新八郎をして、その人の後をつけさせることにした。
「殿」とその時家来らしい侍が、館林様へそういうように云った。「お止めにならなかった方がよろしゅうございましたのに」
「いや」と館林様はすぐに云った。「もうあれ[#「あれ」に傍点]はあれでよかったのだ」
「ははあさようでございましたか」
「伊豆は第二の人物で、やっつける必要はないのだからな」
「それはさようでございましょうとも」
「元兇の方をかたづけなければ嘘だ」
「それはさようでございましょうとも」

        八

「私のお父上のご生存中は、田沼という男も今日のように、ああも僣上《せんじょう》な真似はしなかった」
「それはさようでございましょうとも。殿のお父上右近将監様は、御老中におわすこと三十八年、その間にご加増をお受け遊ばしたこと、わ
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