ったある日のこと、お品の家で、お品と新八郎とが、しめやかな声で話していた。
「お品、私はお前をいとしく[#「いとしく」に傍点]思うよ。お前一人だけを。……お前も私をいとしく[#「いとしく」に傍点]思ってくれるだろうね。裏切りはしまいね。この私を。……私は女に裏切られた男だ」
新八郎はこういうように云って、自分の前へつつましく坐り、うなだれているお品の額へ、そのきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な手をやった。ほつれている髪を上げてやったのである。お品は頷《うなず》くばかりであった。
(妾《わたし》もほんとにこのお方が好きだ。何の妾が裏切ろう。妾は決して裏切りはしない。でも、ある強い外界からの力が、妾を裏切らせようとしている)
お品にはこれが苦しかった。どう云って返辞をしてよいか? それも解らなかった。頷くばかりで黙っている理由《わけ》はこれであった。
ふとお品は新八郎へ訊いた。
「お勘定奉行の松本伊豆守様とおっしゃいますお方は、どういうお方なのでございましょう」
「厭な奴らしい」
新八郎は吐き出すように云った。
「賄賂取りの名人だ。自分でも随分賄賂を使う。田沼侯へ贈賄して、あれまでの位置になった奴だ。……だがそれがどうかしたかな」
「はい。……いいえ」
と曖昧《あいまい》に云った。そう曖昧に云って置いて、お品は愁然とした。
「そのお方のご用人だとかいうお方が……」
「お前を見初めたとでも云うのかな?」
「でも妾はどうありましょうとも。……」
「…………」
この日の午後は晴れていて、この家の裏庭に向いている障子へ、木の枝の影などが映っていた。
その同じ新八郎が、ある夜|往来《みち》で声をかけられた。
「お気の毒なお身の上でございますのね。でも、あの娘ごの罪ではございません。さりとて、松本伊豆守様の罪ばかりとも申されません。元兇は他にあります。……×××町を通り、△△町を過ぎ、□□町を行き抜け、○○町まで行き、そこで認めた異形の人数をどこまでもつけ[#「つけ」に傍点]ていらっしゃいまし。自ずとわかるでございましょう」
それは女の声であった。
(おや?)
と新八郎は驚きながら、声の来た方へ眼をやった。お高祖頭巾を冠っている。上身長《うわぜい》があって肥えている。そう云う女が土塀に添って、一人で立っている姿が見えた。
新八郎は不思議そうに訊いた。
「あなたはどなたでございますか?」
しかし女は答えなかった。
「お品のことについて云っておられますので?」
「はい。……そうしてもう一人の、お気の毒な女の方についても」
「ああそれではお篠のことについて?」
すると女は頷いて見せた。
「妾をお信じなさりませ。云う通りに実行なさりませ」
(何んと云う眼だ! 何んと云う声だ!)
新八郎はそう思った。
お高祖頭巾の奥の方から、彼を見詰めている彼女の眼が、男のような眼だからであった。声にも著しい特色があった。男の声のように強かった。
(お品のことを知っている。お篠のことを知っている。この女はいったい何者なのであろう?)
(こんな所にこんな晩に、女一人で供も連れず、何んと思って立っているのか?)
(俺に云いかけたこの女の言葉! 親切なのか不親切なのか)
新八郎は疑惑を感じながら、立ち去ることも出来ず立っていた。
四
朧月《おぼろづき》の深夜で、往来《ゆきき》の人はなく、犬の吠え声がずっと遠くの、露路の方から聞こえて来た。お筒持ちの小身の武士達の長屋町なので、道幅なども狭かった。
新八郎の姓は小糸、年は二十八歳で、身分は旗本の次男であり、独身の部屋住みであった。当時少しずつ流行して来た蘭学に趣味を持ち、苦心して読みにかかっていた。平賀源内か、前野良沢かについて学ぼうか、それとも長崎へ行って、通辞に従い、単語でも覚えようかなどと、そんなことを考えてもいた。
五百石の旗本の伜《せがれ》なので、随分裕福で、わがままであった。女も好き酒も好き、それに年齢《とし》からも来ているのであろう、猟奇的の性格の持ち主であった。戸ヶ崎熊太郎の門下であって、剣道では上手の域に達してもいた。
毎年長崎から甲必丹《キャピタン》蘭人が通辞と一緒に江戸へ来て、将軍家に拝謁した。その逗留所を客室と云い、その客室では蘭人が携さえて来た舶来品を並べて諸人に見せた。天気験器《ウェールガラス》、寒暖験器《テルモメートル》、震雷験器《ドンドルガラス》、暗室写真鏡《ドンクルカームル》、等々――そんなものが陳列された。杉田玄伯だの桂川甫周だの、中川淳庵だのがよく見に行った。で、新八郎も見に行った。そうして誰にも負けず好奇心を募《つの》らせた。
欧羅巴《ヨーロッパ》における拷問器具――姦通をした女に冠せたという、「驢馬仮面」と十字軍の戦士連が出征に際して、その妻妾の貞操を保護するために、その妻妾連の局部へまとわせたという鉄製の「貞操帯」を見た時変な気がした。狂人のような好奇心に猟り立てられたのである。
「こういう種類の品物、まだまだありましょうな?」
と大通辞の吉雄幸左衛門へ訊いた。
「さよう、沢山あります。そうして江戸へも持って来ました。がそれはご懇望によりある方面の貴顕へ献じました」
こう幸左衛門は答えた。
(是非見たいものだ)
新八郎はこう思ったが、誰に献じたのか解らなかったので、その人を尋ねて見ることは出来なかった。しかし彼は訊いて見た。
「どなたへご献上なさいましたので?」
「甲必丹《キャピタン》カランス殿にお訊きなされ」
こう云って幸左衛門は笑って取り合わなかった。甲必丹には容易に逢うことが出来ず、出来ても言葉が解らず話すことが出来なかったので、新八郎の希望《のぞみ》はとげられそうもなかった。
(惨忍ではあるが何んと誘惑的の器具なのだろう? 是非見たいものだ)
新八郎はそう思った。
今もそのことを思いながら歩いているのである。それにしても何故彼はそうした器具に興味を持ったのであろう? 彼の愛人であったお篠という女が彼を裏切って、ある幕府の権臣の妾になったことが原因であった。
(是非あの女に逢って見たい、逢ってああいう器具を使用させて見たい)
これが希望《のぞみ》なのであった。その女は町医者千賀道有の娘で、随分美しい女であった。二年の間|睦《むつ》み合い、相当の武士の養女として、そこから嫁として新八郎のもとへ来ることに話がきまってさえいた。
ところが不意に女はいなくなった。
で、新八郎は道有を責めて、女をどこへやったかと訊ねた。
「あるお方の側室《そばめ》に差し上げました。しかし、その方の何方であるかは申し上げられません。また、申し上げたとしても、貴所にはどうもなりますまい。御大老伊井中将直幸様さえ頭の上がらないお方なのですから」
これが道有の返辞であった。
女の行った先が、素晴らしい権臣であることだけは間もなく証明された。町医者であった道有が、その後恐ろしいような出世をしたのであるから。すなわち侍医法眼となり、浜町に二千坪の屋敷を持つようになったのであるから。
お篠がそういうようになって以来、新八郎は楽しまなかった。しかるに間もなく水茶屋の娘でお品という女が、お篠と顔立ちが似ているところから、新八郎の心を引くこととなり、新八郎はお品と睦んだ。がどうだろうそのお品も、二、三日前に松本伊豆守へ、用人の手から引き上げられてしまった。小間使いという名義の下に、どうやら妾にされたようであった。
お篠は派手な性質で、贅沢することが出来るのだったら、自分から進んで貴顕権門の、妾になるような女であった。
しかしお品の方はそうではなかった。こまやか[#「こまやか」に傍点]なつつましい情緒を持ち、ささやかな欲望に満足し、愛する男を一本気に愛する。――そう云ったような性質の女であった。
でお篠が自分を見捨てて権門の妾になったという、そういうことを知った時、新八郎は憎悪を感じた。
しかしお品が同じ身の上になったと、お品の母親によって聞かされた時、新八郎は可哀そうなと思った。が、どっちみち新八郎の心は、慰めのないものとなったのである。
そういう新八郎の眼の前に、お高祖頭巾を冠った女が、今忽然と現われて、謎めいた言葉をかけたのである。
(この女は何者なのであろう? ……どうして俺の身の上や、お品やお篠の身の上について、見通しのようなことを云うのであろう?)
疑惑を持たざるを得なかった。
(もう少し突っ込んで訊いて見よう)
こう新八郎は思い付いて、その女の方へ近寄ろうとした。
と、その女は歩き出した。
「ご婦人」
と新八郎は声をかけた。しかしその時にはもうその女は、そこの横手に延びている小広い横丁へはいっていた。
「しばらく」
と新八郎も横丁へはいった。が、すぐに「おや」と云った。女が四人の男達に、前後を守られていたからである。
(そうか)
と新八郎はすぐに思った。
(女は一人ではなかったのだ。以前《まえ》から男達があそこにいて、あの女を警護していたのだ)
(いよいよ不思議な女ではある)
五
女の一団は歩き出した。
(さてこれからどうしたものだ?)
このまま自分の家へ帰るか、それとも女の言葉に従い、×××町などを通り過ぎて、○○町まで歩いて行って、そこで逢うことになっている、異形の人数に逢ってみようか? ――新八郎はちょっと迷った。
(いやいやそれよりあの女の素姓と、住居《すまい》とを突き止める[#「突き止める」は底本では「突め止める」]ことにしよう)
新八郎の好奇心は、女の方へ向かって行った。で、先へ行く女の一団を、新八郎はつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
(おや)
としばらく歩いた時に、新八郎は呟いた。×××町へ出ていたからであり、そうして女の一団が、○○町の方へ行くからであった。
(女が俺を案内して○○町まで行くのかもしれない)
新八郎の好奇心は、このためにかえって倍加された。で、後をつけて行った。
こうしてとうとう○○町まで来た。するとそこで新八郎は、次々に変わった出来事と、そうして変わった人物とに逢った。
行く手に宏壮な屋敷があって、甍《いらか》を月光に光らせていたが、その屋敷の門の前まで行くと、例の女の一団が、にわかに揃って足を止め、内の様子を窺うようにした。が、急に引っ返し、その屋敷の横手に出来ている、露路の中へはいってしまった。
(いったいどうしたというのだろう)
新八郎は不思議に思って、その屋敷の方へ小走ろうとした。しかし彼は足を止めて、あべこべに物の蔭へ隠れた。
その屋敷の門が開いて、異様の行列が出たからである。二人の侍が最初に出、つづいて四人の侍が出た。その四人の侍が、長方形の箱を担《かつ》いでいる。と、その後から二人の侍が、一挺の厳《いか》めしい駕籠に付き添い、警護するように現われた。
これだけでは異様とは云えまい。
しかるにその後から蒔絵を施した、善美を尽くしたお勝手|箪笥《だんす》が、これも四人の武士に担がれ、門から外へ出たのである。
異様な行列と云わざるを得まい。がもし新八郎が近寄って行って、先に出た長方形の箱を見たなら、一層に異様に思ったことであろう。
その箱が桐で出来ていて、金水引きがかかっていて、巨大な熨斗《のし》が張りつけられてあり、献上という文字が書かれてあるのであるから。
行列は無言で進んで行った。
半町あまりも行き過ぎたであろうか、その時露路に隠れていた、例の一団が、往来へ姿を現わして、その行列をつけ[#「つけ」に傍点]出した。
しかし行列の人達に、目付けられるのを憚るかのように、家々が月光を遮って、陰をなしているそういう陰を選んで、きわめてひそやかにつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
新八郎の好奇心は、いよいよたかぶら[#「たかぶら」に傍点]ざるを得なかった。でこれも後をつけた。例の屋敷の前まで行った時、それが松本伊豆守の別邸であることに感付いた。
「ふうん」
と何がなしに新八郎は呻いた。不安と憎
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