そう、行列の後をつけて。そうしてその上であの行列が、あそこの門を何も知らずに、得意気にくぐってはいるのを見て、大声で笑ってやりたいのだ」
「殿らしいご趣味でございます」
「趣味といえばどうにも六人男の連中、あくど[#「あくど」に傍点]過ぎて少しく困る」
「根が不頼漢でございますから」
「云い換えると好人物だからさ」
「無頼漢が好人物で?」
「こんな時世に命を惜しまず、感激をもって事を行う! 気の毒なほどの好人物だよ。……仕事を成功させてからも、伊豆守を討って取ろうとして、横町から本通りへ引っ返して来て、再度の切り込みをしたことなどは、好人物の手本だよ」
「仕事と仰せられ、成功と仰せられる、どのような仕事なのでございますか?」
「家へ帰ってから話してあげよう」
(ふうん、あのお方が『館林様』なのか? 館林様のご本体は、では甲斐の国館林の領主、松平右近将監武元卿――従四位下ノ侍従六万千石の主、遠い将軍家のご連枝の一人、三十八年間も執政をなされた、その右近将監武元卿の公達、妾腹のご次男でおわすところから、本家へはいらず無位無官をもって任じ、遊侠の徒と交わられ、本家では鼻つまみ[#「つまみ」に傍点]だと云われている。松平冬次郎様であられたのか)
 後からつけながら二人の話を、洩れ聞いた小糸新八郎は、そう知って驚かざるを得なかった。
(そういう人物でおわすなら、たった一言二言で、あれだけの争闘をお止めなされた筈だ)
 松平冬次郎の事蹟については、今日相当に知られている。すなわち天明八年の頃、上州武州の百姓が、三千人あまり集まって、五十三ヵ村を鳩合《きゅうごう》して、絹糸改役所という、運上取り立ての悪施政所の、撤廃一揆を起こした事があったが、裏面にあって指揮をした者が、この松平冬次郎であった。明和元年十一月の末に、上州、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光東照宮法会のため、一村について六両二分ずつの、臨時税を課するという誅求《ちゅうきゅう》を怒って、数ヵ月にわたって暴動を起こしたが、この時の蔭の主謀者も、松平冬次郎その人であった。天明七年五月に起こり、関西から関東に波及して、天下の人心を騒がせた、米騒動ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]事件! その事件の主謀者も、彼であったということである。
 ところで田沼時代には、天変地妖引きつづいて起こった。その一つは本郷の丸山から出て、長さ六里、広さ二里、江戸の大半を焼き払った火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、九州、奥羽に、連発した旱《ひでり》や大暴風雨や洪水、数万の人民はそれがために死に饑《う》え苦しみ流離したが、そういう場合に施米をしたり、人心を鼓舞したり富豪を説いたりして、特別の救助をさせた者があったが、彼であったということである。
 で、一種風変わりの社会政策実行者としては、この、松平冬次郎は、日本裏面史の大立て者なのであった。
 そういう松平冬次郎の「館林様」が供の侍を連れて、今歩いて行くのである。以前にも増して小糸新八郎が、興味と尊敬とに誘われて、後をどこまでもつけて行ったのは、当然のことと云わなければなるまい。早春の深夜の朧月が、江戸の家々と往来と、木立と庭園と掘割と、掘割の船とを照らしている。

        九

 ここの往来も月光を受けて、紗のような微光に化粧されている。そうして靄《もや》が立っている。
 ずっと向こうを例の行列が、その月光と靄とを分けて、ずんずん先へ進んで行く。その後から館林様と家来とが、話し合いながら進んで行く。それを新八郎はつけて行った。
 館林様の上品端正な、両の肩が月の光を浴びて、仄《ほの》かに銀のように白っぽくおぼ[#「おぼ」に傍点]めき、肩の上に山形に載っている、編笠があたかも異様に大きい、一片の花の弁のように見えた。こうして町々を通り抜けた。
 と、行く手に余りにも宏壮な、大名の下屋敷が立っていた。
 そこの裏門まで行った時である。例の行列が開いた扉から、呑まれるように吸い込まれた。で、後は静かとなって、人の姿は見られなかった。しかしその時その門の前で、大きく笑う笑声がした。
 見れば館林様とその家来とが、門の前に立っていた。が、やがて引っ返して来た。そうして木蔭に身を隠していた、新八郎の横手を抜けて、元来た方へ帰って行った。
(稲荷堀の田沼侯の屋敷の前で、館林様には大笑なされた。あのお方の目的はとげられたという訳さ。……何故笑ったか知らないが、笑っただけでも痛快だ)
 新八郎はこう思いながら、木蔭から姿を現わした。
(ところで俺はこれからどうしたものだ?)
 家へ帰るより仕方がなかった。
(いろいろと変わった人間に逢い、いろいろ変わった事件に逢った。無駄な一夜だったとは云われない)
 彼は満足した心持ちで、元来た方へ引っ
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