と『ままごと』とを、向こうへも担いで行く者がある! ご両所、あれを……」
とこう云ってから、二人の同心へ小さい声で何やら囁いたことを見聞きしたことであろう。しかし後からつけて行かなかった、小糸新八郎にはそのようなことを、見聞きすることは出来なかった。その後はどうなったか?
行列の人数がずっと先を、今は安心したものと見えて、ゆっくりした足どりで歩いて行き、その後から二人の侍が行き――その一人は声をかけた侍であり、もう一人はその侍の家来らしかったが――その後から小糸新八郎が、疑惑の解けない心持ちで、歩いて行くという結果になった。
次から次と起こって来る変わった事件に、新八郎の心は、解けない疑惑に充たされていたが、それよりも眼前を歩いて行く、二人の侍の中の一人――声をかけた侍に引きつけられていた。深編笠、無紋の羽織、袴なしの着流しで、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な大小を穏かに差し、塗り下駄を穿いた二十八、九歳の侍で、貴人のような威厳があった。それは評判の「館林様」であった。
ところで新八郎はその人の評判を、以前から聞いてはいたけれど、姿を見たことは一度もなかった。で、今、館林様が歩いていても、そうだということは知らなかった。
(一言二言鋭い口調で、叱るように何か云ったかと思うと、争闘をしていた二組の者や、有名な十二神《オチフルイ》氏というような人まで、その言葉に驚いて逃げてしまった。よほど偉大なる人物でなければならない)
いったいどういう人物なのであろう? この疑問が新八郎をして、その人の後をつけさせることにした。
「殿」とその時家来らしい侍が、館林様へそういうように云った。「お止めにならなかった方がよろしゅうございましたのに」
「いや」と館林様はすぐに云った。「もうあれ[#「あれ」に傍点]はあれでよかったのだ」
「ははあさようでございましたか」
「伊豆は第二の人物で、やっつける必要はないのだからな」
「それはさようでございましょうとも」
「元兇の方をかたづけなければ嘘だ」
「それはさようでございましょうとも」
八
「私のお父上のご生存中は、田沼という男も今日のように、ああも僣上《せんじょう》な真似はしなかった」
「それはさようでございましょうとも。殿のお父上右近将監様は、御老中におわすこと三十八年、その間にご加増をお受け遊ばしたこと、わずか六千石でございました。いかにご忠正でご謙謹で、お身をお守り遊ばすことが、お固すぎるほどお固うございましたことか」
「将軍家《うえさま》が田沼をご寵愛のあまり、度々ご加増遊ばされたが、ある時のご加増に田沼は憚《はばか》り、私のお父上に意見を訊いたそうだ。するとお父上は云われたそうだ。『そなたの秩《ちつ》はまだ五万石以下だ。五万石まではよろしかろう。と云うのは徳廟『吉宗』公様が、秩五万に充たざる者は、積労によって増すべきであると、こう仰せ遊ばされたからだ。……今、将軍家《うえさま》よりの命があって、そなたがご辞退致したとあれば、一つには将軍家へ不恭となり、二つには将軍家の過贈の非を、世間へ知らせることになる。だからご加増は受けるがよろしい』と。……その時田沼は感激して、涙を流したということだ。……それだのに私のお父上が、この世を辞してからというものは、千|恣《し》百|怠《たい》沙汰の限りの態だ。売官売勲利権漁り、利慾を喰わしては党を作り、威嚇を行っては異党を攻め、自己を非議する識者や学徒の、言説を封じ刊行物を禁じ、美女を蓄わえて己《おのれ》楽しみ、美女を進めて将軍家を眩まし、奢侈《しゃし》と軟弱と贈収賄と、好色の風潮ばかりを瀰漫《びまん》させておる。……老中、若年寄、大目附、内閣は組織されていても、田沼一人に掣肘《せいちゅう》されて、政治の実は行われていない。……こういう時世には私のような男が、一人ぐらい出る必要がある。お父上が老練と家柄と、穏健と徳望とを基にして、老中筆頭という高官にあって、田沼の横暴を抑えたのを、私は年若と無位無官と、過激と権謀術数と、ある意味における暴力とを基とし、表面には立たず裏面にいて田沼の横暴を膺懲《ようちょう》するのだ。……私のような人間も必要だ」
「必要の段ではございません。大いに必要でございます。でありますから世間では、殿様のことをいつとはなしに『館林様』とこのように申して、恐ろしい、神のような、救世主のような、そういう人物に空想し、尊び敬い懐しんでおります。……がしかし殿にはどう遊ばしましますので? これからどこへいらせられますので?」
「もう用事は済んだのだ。……証拠を捉えようと企んだ仕事が、今、成功したのだからな。で家へ帰ってもいいのだ。がしかし私は笑ってやりたい。で、もう少し行くことにしよう」
「あの行列の後をつけて?」
「
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