く愁わしそうな様子で、暮れて行く空を仰いでいたが、にわかに活々《いきいき》と眼を躍らせた。
 向こうから一人の若侍が、お品に向かって笑いかけながら、足を早めて来たからであった。貝十郎は若侍を見た。それからお品の顔を見た。
(そうか)
 と思いあたったような様子であった。
(新八郎氏がお品に通う! これはありそうなことだわい)
 その若侍とお品とが、もつれるような姿をして、暖簾の奥へ引っ込んだのを見すてて、貝十郎は歩き出した。
 思案に耽っている様子であった。冷雨の降った後である。盛り場も今日は比較的に寂しく、それに夕暮れになっていたので、家々では店を片付け出していた。
 しかし一所《ひとところ》に大|公孫樹《いちょう》があって、そこだけには人が集まっていた。居合抜きの香具師《やし》の薬売りで、この盛り場の名物になっている、藤兵衛という皮肉な男が、口上を述べているからであった。
 この藤兵衛には特技があった。彼のお喋舌《しゃべ》りを聞こうとして、集まって来る人達の中に、知名の人や名士がいると、早速その人の名を揚げて、その人の癖や特色を、揶揄《やゆ》したり褒めたりすることであった。
「大変なお方がお立ち寄りになった。これは大和屋文魚様で! 蔵前の札差し、十八大通のお一人! 河東節の名人、文魚本多の創始者、豪勢なお方でございますよ。が、その割に花魁《おいらん》にはもて[#「もて」に傍点]ず、そこでかえって稼業は繁昌、夫婦別れもないという次第! 結構至極ではありますが、私の薬をお飲みになったら、もて[#「もて」に傍点]ないお方ももて[#「もて」に傍点]ようというもの! それ精力が増しますのでな。……これはこれは平賀源内様で、ようこそお立ち寄りくださいました。が、どうして平賀様には、奥様をお貰いなさいませんので。それにさいったい平賀様には、何が本職でございますかな? 本草学者か発明家か、それとも山師か蘭学者か? お医者衆なのでございますかな。……」
 ――などと云うような類であった。
 今も彼は十五、六人の、暇そうな見物に取り巻かれ、気忙《きぜわ》しそうに喋舌っていた。
「近来|流行《はや》る『ままごと』の中へ、この売薬を一袋、どうでも入れなければ嘘でござんす! 名に負う蘭人の甲必丹《キャピタン》から、お上へ献上なされようとして、わざわざ長崎の港から、江戸まで持って参った薬で
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