んの死んだ日だったね。……そうだ諸人接待の日だった。……私はこの日が来る度ごとに、鞭撻されるような気持ちがする。いやいや鞭撻されようために、今日を諸人接待の日に、取り決めたのだと云った方がいい。……兄さんは死ぬ前に私にあてて、気の毒な手紙をよこしたのだよ。悲痛の手紙と云ってもよいが。……お前は向こうへ行っておくれ。……ああ少し待っておくれ。接待に来てくれた人の中に、変わった人があったかしら?」
「いいえ」とお豊の云う声が聞こえた。「でも猪之助が来ていました」
「猪之助? おお猪之助が。……あの破落戸《ごろつき》が! 執念深い! ……兄の悪口を云っていたであろうな」
「ええ申しておりました」
「去年も来た、一昨年《おととし》も来た。……普通の日にもやって来て、私を強請《ゆす》ったことさえある。……あいつは誤解をしているのだ。……いやいやいや、誤解ではないが。……お豊や、私は気持ちが悪くなった。お前は向こうへ行って休むがよい」
 ここでしばらく話が絶え、やがて足音が聞こえて来た。貝十郎は身を翻えしたが、素早く廊下を右の方へ走り、闇に立って窺った。と、すぐにお豊の姿が、戸口から出て庭の方へ行った。と、庭から驚いたような、お豊の声が聞こえて来た。
「ま、猪之助さん! どうしたのです!」
 男の答える声がしたが、兇暴な響きを持っていた。
「退け! 今夜こそ埒《らち》をあけるんだ!」
「いけません! ……おお、誰か来てください!」
「敵《かたき》だ! 畜生め! 親の敵だ! ……待って待って待っていたのだ! ……他国からこの地へやって来て、こんな山の中へ住み込んで! 金……命を取るか、金を取るかと! ……やい、放せ! 埒をあけるのだ!」
「危険《あぶな》い! そんな、刃物なんか! ……誰か来てください! あッ誰か!」
(これはいけない)と貝十郎は、素早く入り口の方へ走って行った。が、こういう瞬間にも彼は疑問を脳裡へ浮かべた。
(俺の耳へさえ聞こえて来たのだ。隼二郎にも聞こえなければならない。どうして助けに行かないのだろう?)――で彼は庭へ飛び出すより先に、隼二郎のいる部屋を覗いて見た。
「いない! ……どうしたのだ、隼二郎はいない!」
 部屋は洋風に出来ていて、巨大な飾り棚や頑丈な卓や、椅子や書架が置いてあり、卓の上には杉田玄伯や、前野良沢や大槻玄沢や、貝十郎にとっては知己にあた
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