、長屋らしい建物もあった。夜が更けているところから、どの建物からも灯火《あかり》は射さず、人の声も聞こえなかった。厩舎の前まで行った時、ませ[#「ませ」に傍点]棒を蹴っていた白い馬が、人なつかしそうに首を伸ばし、太い鼻息をして貝十郎を迎えた。横射しに射していた月光が、その長い顔をいよいよ長く見せた。
 貝十郎は彷徨《さまよ》って行った。と、行く手に建物があり、そこから灯火が射していた。主屋と五間ほど離れた所に、独立して建ててある建物であって、二間か三間かそれくらいの座敷を、含んでいる程度の大きさであり、主屋とは幾個かの飛び石をもって、簡単に連絡されていた。風変わりの建物でもなかったが、頑丈にしかして用心堅固に、造られているように見て取られた。三方厚い壁であり、その壁々には明りとりの、鉄格子をはめた窓ばかりが、わずかについているばかりであった。主屋《おもや》に向いた方角に、出入り口がついていた。土蔵づくりの建物なのである。燈火は出入り口から射していた。戸をとざすのを忘れたからであろう。射している光もほんの幽《かす》かで、他の幾棟かの建物から、同じように光が射していたら、紛れて気づかれないほどであった。
 貝十郎はそっちへ進んだ。入り口の前まで歩いて行った時、彼は女の泣き声と、そうして男の叱る声とを、その建物の中から聞いた。
(オーヤ、オーヤ)と彼は思った。(ここでは女が虐められている。反対側のあっちの庭では、男と女とが愛撫し合っていたが)
 彼はしたたかに酔っていた。そうして彼は与力であった。与力としての精神と、酔漢としての戯心《たわむれごころ》とで、彼は真相を知ろうと思った。
 で、足音を忍ばせて、建物の中へはいって行った。泣きながら女の喋舌《しゃべ》る声が、すぐ彼へ聞こえて来た。
「妾《わたし》、もうもう待てません。……これではまるで嫐《なぶ》り殺しです。……今夜こそ……どうしたって……でなかろうものなら……」
 男の叱る声が聞こえた。
「ね、あっちへ行っておいで。……お前の心は解っているよ。……が、しかしそう性急には……物事にはすべて順序がある。あの……娘《こ》を……ね、三保の方を……三保は年頃になっているのだから。……それに私《わし》には仕事がある。……これもどうしたって仕上げなければならない。……だからこそ私《わし》はこんな所へ……ああそうだよ。こんな所へこ
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