「房州網代村の産でござんす。……ご免遊ばせ」
 とスッと立ち、向こう側の座席へ行ってしまった。
(驚いたなあ)と貝十郎は、胸へ腕を組んで考えた。(どういう素姓の女だろう? ……それにしてもすっかり酔わされたぞ)その時寺子屋の師匠の声がした。
「お豊、あの女が曲者でしてな」
「さようで」と村医者の声がした。「隼二郎殿もお蔭で痩せましょうよ」
 こうして接待は深夜まで続いた。その間に土地の人達は、次々に辞して家へ帰り、旅の者だけが希望《のぞみ》に委せて、別々の座敷で寝ることになった。
 貝十郎の案内された部屋は、十畳敷きぐらいの部屋であって、絹布の夜具が敷かれてあり、酔ざめの水などが用意されてあった。
(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は布団の上へ坐り、ぼんやり行燈を眺めやった。したたかに彼は飲まされたので、酔がすっかり廻っていた。(何んにもなすことはないじゃアないか。フラリとやって来てご馳走になって、いい気持ちに酔ったのだからな。このままグッスリ眠ってしまって、翌日になったら顔を洗い、有難うござんしたとお礼を云って、帰ってしまったらいいじゃアないか)彼はこんなことを思い出した。(何も征矢野家の犯罪って奴を、あばき出そうために来たのじゃアない。たかだか酔狂な好奇心から、様子を探るために来たまでだ。探る必要はあるまいよ)トロンとした心でこんなことを思った。(叩いた日にはどんなものからだって、罪悪という埃は立つさ。こういう俺だってひっ[#「ひっ」に傍点]叩かれて見ろ、そりゃア目茶苦茶に埃は立つ)ここまで考えて来ておかしくなった。(二百石取りの与力の俺がさ、蔵前の札差しと対等に、吉原で花魁《おいらん》が買えるんだからな。不思議と云わなければならないよ。そういう贅沢がどうして出来る? と、歯ぎしりをして問い詰められて見ろ、ダーとなって引っ込んでしまわなければならない)

 そこで寝てしまおうと帯を解きはじめた。その時どこからともなく、雉《きじ》の啼き声が聞こえて来た。すぐに続いて梟の啼き声が、――こんな深夜だのにそれに答えて、どこからともなく聞こえて来た。
(いけない)と貝十郎は帯を解く手を止め、その手で大小を手《た》ばさんだ。与力としての良心が、にわかに閃めいたからである。襖をあけて廊下へ出た。しかしすぐによろめいた。(はてな、悪酔いをしたらしいぞ)
 ヒョロヒョロヒ
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