人情とに触れようために来たのであった。
与力とは云っても貝十郎は、この時代の江戸の名物男であり、伊達男《ダンデー》であり、風流児であり、町奉行の依田和泉守などとは、そういう点で憚《はばか》りのない、友人|交際《つきあい》をしていたので、そういうわがままは大目に見られていた。
上松の宿まで来た時である。貝十郎は茶店へ休んだ。
「征矢野という家がこの辺にあるかな?」
茶店の婆さんへ何気なく訊いた。
「へい、いくらでもございますだ」
「ナニ、一軒で沢山なのだが、美しい娘のある家だ」
「木曽は美人の名所でごわしてな」
「有難う」と貝十郎は笑って受けた。「婆さんなんかもその一人だね」
「へい、御意《ぎょい》で、三十年前には」
「三十年前の別嬪については、いずれ詮索をするとして、三保という娘のいる家だが……」
「あれ、お三保お嬢様のお家でがすか」
「さよう。お前の親戚かな」
「とんでもねえ」と婆さんは撥ねた。「勿体もねえご旧家様でごわす」
「そのご旧家様、どこにあるかな?」
二
旧家であって財産家ではあったが、主人も主婦も死んでしまい、娘一人が生き残り、主人の弟の隼《はや》二郎という男が、後見人として入り込んでいる。上松の宿から三里あまり、山の方へはいった鷺ノ森という地点に、宏大な屋敷が立っている。――と云うのが茶店の老婆の話した、征矢野という家の輪廓であった。
(もうこれだけでも犯罪の起こる、立派な条件が具備されている)鷺ノ森の方へ歩きながら、貝十郎はそんなように思った。
(隼二郎という男が悪人で、征矢野という家を横領しようとする。後継者の娘が邪魔になる。悪漢《わるもの》に云いつけてお三保という娘を、傷者《きずもの》にするか誘拐《かどわか》させる。……平凡に考えてもこんなような、犯罪の筋道はちゃんと立つ)貝十郎は歩いて行った。
木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や羅漢柏《あすなろ》や椹《さわら》や落葉松《からまつ》や檜《ひのき》などが左右に茂っている。山腹の細道は歩きにくく、それに夕暮れでもあったので、気味悪くさえ思われた。空を仰いでも左右から差し出した木々の枝葉に蔽われて、夕焼けた細い空が帯のように覗かれて見えるばかりであった。足にまつわる草や蔓には、露があって脚絆《きゃはん》を冷たく濡らした。
かなり歩いたと思った時、行く手の灌木の向こ
前へ
次へ
全83ページ中57ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング