して嘉右衛門は歌い出した。
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※[#歌記号、1−3−28]………………
  ………………
[#ここで字下げ終わり]
 しかし言葉をなさない前に、にわかに歌うのを止めてしまい、顔を窓の方へやったかと思うと、
「汝《おのれ》ら、秘密を盗みに来たか!」
 こう叫んで立ち上がった。が、その次の瞬間には、腐った木のように床の上に仆れた。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてこれも立ち上がり、貝十郎は窓の方を見た。彼の眼に映ったものといえば、この家の伜の京一郎の顔と、お蝶のその実はこの時代の盗賊、六人男といわれている賊の、その中の一人の女勘助の、妖艶をきわめた顔であった。
「馬鹿め! あったら大事なところを!」
 貝十郎は残念そうに叫び、身をかがめて嘉右衛門の手を取った。が、その手には脉《みゃく》がなかった。激情が彼を殺したのである。

 後日、貝十郎は人に語った。
「嘉右衛門は本来密貿易商として、刑殺さるべき人間なのでしたが、財産を田沼侯へ差し上げたので、命ばかりは助けられたのでした。全財産を献じたと云っても、それは実は表向きで、彼は以前から大きな財産を、ひそかに隠して持っていて、その隠し場所を歌へ詠《よ》み込み、機嫌のよい時に一人で歌って、楽しんでいたということです。そうして女房だけへは云ったそうです。『京一郎が二十五にでもなり、俺の事が官から忘れられた頃、その財産を取り出して、昔のような豪快な、海の上の生活をやることにしよう』と。……そういう秘密の歌のことを、どうして館林様が知ったものか――ああいう叡智《えいち》のお方だから、どこからかお知りなされたのであろう。――秘密の歌の前半まで知って、後へつづく歌を知ろうとなされた。と云って嘉右衛門に強いて訊いても、剛愎の嘉右衛門が話すわけはない。伜の京一郎から訊かせたら、親子の情で話すだろう。……そこで手下の六人男と謀り、京一郎を玉にしたのでした。……あの時の喧嘩はカラクリなのでした。お蝶――女勘助の家へ――あの家は彼らの巣だったのでした。……逃げ込ませようためのカラクリだったのでした。それからの事はお話しなくとも推量する事が出来ましょう」

    木曽の旧家


        一

「あれーッ」
 と女の悲鳴が聞こえた。貝十郎は走って行った。森の中で若い美しい娘が、二、三人の男に襲われていた。しかし貝十
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