悪行して奪いし金銀みなここにて使い捨てぬ。この事師匠武蔵聞いて、破門し勘当しけり。これより諸国を遍歴し、武州高尾山に詣で、飯綱権現《いいずなごんげん》に祈誓して生涯の安泰を心願し、これより名を甚内と改め、相州平塚宿にしばらく足を止どめて盗賊の首領となり、後また豆州箱根山にかくれて、なお強盗の張本たり。
後再び江戸に入る。云々」
[#ここで字下げ終わり]
で、その勾坂甚内が二度目に江戸へはいって来た時から作者《わたし》の物語は展開するのである。
「箱根の山砦《さんさい》を手下に渡して江戸へ足を入れたというのも、江戸の様子が見たかったからだ。……ところで今俺は江戸にいる。が、別に嬉しくもない」
赤坂溜他の浪宅で、剣道を弟子に教えたり、博徒と博奕《ばくち》を開帳したり、飯より好きな辻斬りをしたり、よりより集まって来た旧手下どもと大名屋敷へ忍び込みお納戸金を奪ったり、あらゆる悪行を働きながらも彼は満足しないと見えて、こんな嘆息を洩らすのであった。
「いや昔は面白かった。それに立派な稼ぎ人もいた。庄司甚内、飛沢甚内、俺を加えて三甚内よ。江戸中の心胆を寒からせたものだ。ところがそれから五年経った今日この頃はどうかというに、目星い稼ぎ人は影さえもない」
などと不平を云ったりした。
「そうは云っても五年前よりよくなったことも若干《いくら》かはある。散在していた風呂屋女を吉原の土地へ一つに集め、駿府の遊女町を持って来たなどは確かに面白い考えだ」
こんなことを云いながら、その吉原の遊女屋へ、自身根気よく通うのであった。
福岡の城主五十二万石、松平美濃守のお邸は霞ヶ関の高台にあったが、勾坂甚内は徒党を率い、新玉《あらたま》の年の寿《ことぶき》に酔い痴れている隙を窺い、金蔵を破って黄金《かね》を持ち出した。
「いや春先から景気がよいぞ。さあ分配金《わけまえ》をくれてやるから、どこへでも行って遊んで来い」
手下どもを追いやってから、自分も重い財布を握り、いつもの癖の一人遊び、ブラリと吉原へやって来た。大門をはいれば中之町、取っ付きの左側が山田宗順の楼《ろう》、それと向かい合った高楼はこの遊廓の支配役庄司甚右衛門の楼《いえ》である。
遊里の松の内と来たひにはその賑やかさ沙汰の限りである。その時分から千客万来、どの楼《いえ》も大入叶《おおいりかな》うである。
庄司の姓も懐しく甚右衛門の甚にも心を引かれ、勾坂甚内はずっと以前《まえ》から甚右衛門の楼の馴染《なじみ》とし、この里へ来るごとに立ち寄っていたが、心中では一度甚右衛門に逢って見たいと思っていた。
「庄司甚内と庄司甚右衛門。どうも非常に似ている名前だ。と云って泥棒の庄司甚内が足を洗って遊女屋になり廓中支配役になるようなことは絶対にあるべき筈はないし、もしまたそれがあったにしても、自分は賊であった庄司甚内をかつて一度も見たことがないから、たとえ顔を合わせたところでそれと知ることは出来そうもない」――勾坂甚内はこう思いながらも折りがあったら逢って見たいとやはり思ってはいるのであった。
四
長い暖簾《のれん》をひらりと刎《は》ね甚内は土間へはいって行った。
「いらっしゃいまし」と景気のよい声、二、三人バラバラと現われたが、
「お、これは白須賀様、ようおいでくだされました。さあさあ常時《いつも》のお座敷へな、お米さんがお待ち兼ねでござんすに」
白須賀は甚内の変名である。盗んだ金だけに糸目をつけず惜し気なくパッパッと使うのでどこへ行ってもモテルのであった。通された常時《いつも》の座敷というは、この時代に珍らしい三層楼で、廓内の様子が一眼に見える。
やがて山海の珍味が並ぶ。
山海の珍味と云ったところで、この時分の江戸の料理と来ては京大坂に比べて、不味《まず》さ加減が話にもならぬ。それでも渦高《うずたか》く鉢皿に盛られて、ズラリと前へ並べられたところは決して悪い気持ちではない。
山本|勾当《こうとう》の三絃に合わせて美声自慢のお品女郎が流行《はやり》の小唄を一|連《くさり》唄った。新年にちなんだめでたい唄だ。
「お品。相変わらずうまいものだな……どれそれでは肴せずばなるまい」
甚内は機嫌よくこう云うと懐中《ふところ》から財布を取り出した。それから座にある誰彼なしに小判を一枚ずつ分けてやった。
「お大尽様! お大尽様!」
みんな喜んで囃し立てた頃には短かい冬の日がいつか暮れて座敷には燭台が立て連らねられた。
この時ようやく甚内の馴染のお米女郎が現われた。
いつも淋しげの女ではあるが分けても今夜は淋しそうに、坐ると一緒に首垂《うなだ》れたが、細い首には保ち兼ねるようなたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とした黒髪に、瓜実顔《うりざねがお》をふっくり[#「ふっくり」に傍点]と包ませ、パラリと下がった後《おく》れ毛を時々掻き上げる細い指先が白魚のように白いのだけでも、男の心を蕩《とろ》かすに足りる。なだらかに通った高い鼻、軽くとざされた唇がやや受け口に見えるのが穏《おとな》しやかにも艶《あで》やかである。水のように澄んだ切れ長の眼が濃い睫毛に蔽われた態《さま》は森に隠された湖水とも云えよう。年はおおかた十七、八、撫で肩に腰細く肉附き豊かではあるけれど姿のよいためか痩せて見える。
お米が座中に現われると同時に、そこに並んでいた女子供は一時に光を失った。ひどく見劣りがするのである。
「お米、機嫌が悪いそうな。盃ひとつ差してもくれぬの」
甚内は笑いながらこう云った。
「…………」お米は何んとも云わなかったが、その代わり静かに顔を上げ、幽かに微笑《ほおえみ》を頬に浮かべた。
「毎年初雪の降る日にはいつも[#「いつも」に傍点]お米さんはご機嫌が悪く浮かぬお顔をなされます」――お島というのが取りなし顔にこう横から口を出す。
「ふうむ、それは不思議だの。初雪に怨みでもあると見える」――無論何気なく云ったのではあったが、その甚内の言葉を聞くとお米は颯《さっ》と顔色を変えた。
「あい、怨みがありますとも。――初雪に怨みがあるのでござんす」こう意気込んで云ったものである。
あまりその声が異様だったので一座の者は眼を見合わせた。一刹那座敷が森然《しん》となる。
「ホホ、ホホ、ホホ、ホホ」
気味の悪いお米の笑い声が、すぐその後から追っかけて、こう座敷へ響き渡った時には、豪雄の勾坂甚内さえ何がなしにゾッと戦《おのの》かれたのである。
夜が更け酒肴が徹せられた、甚内は寝間へ誘《いざな》われたが、容易にお米の寝ないのを見るとちと不平も萠《きざ》して来る。で、蒲団の上へ坐り、不味《まず》そうに煙草を喫い出した。
「お米」と甚内はやがて云った。「心に蟠《わだか》まりがあるらしいの。膝とも談合ということがある。心を割って話したらどうだ。日数は浅いが馴染は深い。場合によっては力にもなろう。それとも他人には明かされぬ大事な秘密の心配事ででもあるかな?」
「はい」――とお米は親切に訊かれてついホロホロと涙ぐんだが、
「お父様の敵《かたき》が討ちたいのでございます」
一句凄然と云って退けた。
「む」と、甚内もこれには驚き、思わず声を詰まらせたが、
「おおそれは勇ましいことだな。……で、敵は何者だな?」
「さあそれが解っておりさえしたら、こんな苦労は致しませぬ」
「父を討たれたはいつ頃だな?」
「五年前の極月《ごくげつ》二十日、初雪の降った晩のこと、霊岸島の川口町で無尽に当たった帰路《かえりみち》を、締め殺されたそのあげく河の中へ投げ込まれ、死骸の揚がったはその翌日、その時以来家運が傾き質屋の店も畳んでしまい、妾《わたし》はこうして遊女勤め、悲しいことでござります」
涙の顔を袖で抑えお米は甚内の膝の上へとん[#「とん」に傍点]と体を投げかけたが、とたんに襖が断りもなくスルリと外から開けられた。
五
「誰だ!」
と甚内が振り返る。
「声も掛けず開けましたはとんだ私の不調法、真っ平ご免くださいますよう」
こう云いながら坐ったのは、甚内よりも十歳ほど更けた四十五、六の立派な人物、赧ら顔でデップリと肥え、広袖姿がよく似合う。
「ま、お前はご主人さん。それでは妾《わたし》は座を外し」
「うん、そうさな、では少しの間、座を外して貰おうか」
「はい」と云って出て行くお米、主人庄司甚右衛門はスルスルと前へ膝行《いざ》ったが、
「客人、いやさ勾坂甚内、大泥棒にも似合わねえドジな真似をするじゃねえか」
両手を袖へ引っ込ませると、バラバラと落ちて来た小判|幾片《いくひら》。甚内が蒔いたさっきの小判だ。
「黒田様の刻印が打ち込んであるのが解らねえか」
「え?」
と甚内は今さら驚きムズと小判をひっ[#「ひっ」に傍点][#「小判をひっ[#「ひっ」に傍点]」は底本では「小判をひ[#「をひ」に傍点]っ」]掴んだ。いかにも刻印が押してある。
「むう」と唸るばかりである。
「なんと一言もあるまいがな。さあ早く仕度をするがいい。大門口は出られめえ。家《うち》の裏木戸を開けて進ぜる」
「そう急《せ》き立てるところを見ると、さてはもう手が廻ったか!」
「徒党を組んだ盗賊が黒田様の宝蔵を破り莫大の金子を奪ったについては、晩《おそ》かれ早かれここら辺りを徘徊するに相違ないから、怪しい者の目付かり次第届け出るようにと布告《ふれ》の廻ったはつい[#「つい」に傍点]今日の昼のこと、したがってこの辺一円は同心目明しの巣のようなものだ。のっそり[#「のっそり」に傍点]迂濶《うかつ》に出ようものなら、すぐに御用の声を聞こう。まあ俺に従《つ》いて来な、悪いようにはしねえ意《つもり》だ」
「ふうむ、それにしてもこの俺を、勾坂甚内と見抜いたは?」
「黒田の邸へ押し込んで、宝蔵でも破ろうというものは三甚内の他にはねえ。……ところで三人の甚内のうち二人までは足を洗い今は素人になっている筈だ。残るは勾坂甚内だけ。その勾坂こそすなわちお前よ。宝蔵破りのその翌晩、盗んだ金を懐中にして、遊里へ姿を晒そうとする大胆不敵のやり口は、その他の奴には出来そうもねえ」
「ううむ、そうか、いや当たった。いかにも俺は勾坂だ。勾坂甚内に相違ねえ。さあこう清く宣《なの》ったからには、お前も素性を明かすがいい」
「もうおおかたは察していよう。俺こそ庄司甚内だ」
「それじゃやっぱりそうだったか。もしやもしやと思ってはいたが、そう明瞭《はっきり》と宣られると、なんだか変な気持ちがするなア。――これが懐しいとでも云うのだろうよ」
「おい勾坂の」と声を忍ばせ、一膝進み出た甚右衛門は、グイと顔を突き出したが、「この顔見覚えがあろうがの?」
「え?」と甚内は眼を見張る。と、彼は愕然とした。「……うむ、そういえば頬の上に古い一筋の太刀傷がある! ……お、あの時の船頭だ」
「それでもどうやら気が付いたらしい。いかにもあの時の船頭だ。……お前あの時罪もねえ可哀そうな老人《としより》を締め殺したっけのう」
「殺すつもりはなかったが時のはずみ[#「はずみ」に傍点]で力がはいり殺生なことをしてしまった」
「その老人の一人娘がお前の馴染のあのお米よ」
「それとも知らぬお米の口からたった今聞いて驚いたところさ」
「枕交わすが商売とは云え、親の敵と馴染むとは……」
「知らぬが因果の畜生道さ」
「お米にとっては尽きぬ怨み……」
「俺にとっては勿怪《もっけ》の幸い」
「おい、勾坂の、どうするつもりだ?」
「お米が俺を討つ気なら宣《なの》って殺されてやるつもりよ。が、討つ気はよもあるめえ。二世さえ契った仲だからの。二世を契れば未来も夫婦! 俺を殺せば良人《おっと》殺しだ!」
「あっ!」
と魂消《たまげ》る女の声が隣りの部屋から聞こえて来た。
二人一緒に立ち上がり颯と開けた襖の彼方《かなた》に伏し転《まろ》んでいるのはお米であった。
「や、お米、咽喉《のど》突いたな!」
「傷は浅い! しっかりしろ!」
左右から抱かれて眼をひらき、
「親方さん、おさらばでござんす」
甚内の顔を見詰めな
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